曹操の下に就いたのは、半ば脅されての事だった。
周囲から「曹操に逆らうな」と言われては、従う以外に方法はない。
拒否したぐらいで殺されるのも、まっぴら御免だ。
だから…言われるままに、曹操の城へと行ったのだ。
【この道の上に立つ】
→ 司馬懿
仕官して初めて曹操という男を見て…そして、初めて理解した。
彼は、無邪気な顔で虫を踏み潰す、そんな男だった。
逆らうな、といった周囲の言葉もあながち大袈裟というわけでもなかったわけだ。
仕官して城内に部屋を賜り、まずは一日目で彼に従う将の名前を全員頭にたたき込んだ。
夏侯惇殿やその従兄弟の夏侯淵殿、許チョ殿や典韋殿など、
将の中でも上位に居る者は前から知ってはいたが、更に下のもっと些末に到るまでの全員を。
必要だったからだ。
それでも、私は一人で居た。
誰とも馴れ合う気はなかったし、友と呼び合う者も必要ない。
この場所で必要とされているのは、『司馬仲達』ではなく『有能な才』。
ただそれだけなのだと、理解していたからだ。
結論の見えない軍議が3日、続いていた。
大の男がそれも多人数で顔を付き合わせて朝から晩までああでもない、
こうでもない、と論議している。
3日目の今日、とうとう君主である曹操殿が逃げ出した。
それを追い掛けたのが夏侯惇殿だが、彼もまた連日続く軍議に嫌気がさしていたのだろう、
追い掛けていくその速さは、普段の倍はあった。
だが、2人減ったからといって何が変わるというわけではない。
相変わらず会議室の中の空気は、濃密度であった。
会議の最中、私は一言も発しなかった。
昨日も一昨日も結論が出なかったのは、そのせいがあったのかもしれない。
ただ、この城内において私の評判は芳しくない。
それはちゃんと知っている。だから。
だから、発言をしても必ず他の文官や武官から反対意見が出る。
そして話は、いつも振り出しに戻る。
そんな実態を理解しているから。
…本当の理由は、それだけではなかったが。
「今日はこのぐらいにしようぜ。埒があかねぇ」
机を叩いて夏侯淵殿が言う。
彼も、会議に嫌気がさしてきた人間の一人だろう。
もともと武官に我慢強い者は少ない。
それが解っていないのだから、ここの文官は能無しなのだ。
策があり、武官はそれに従い動く、それだけで良いのだ。
長丁場の会議は、武官にとって苦痛なだけだ。
その中でもまだ忍耐強い徐晃殿ですら、表情に疲れが見える。
「やめやめ、今日はやめだ。
惇兄も孟徳兄もいねぇ。これじゃしょうがねぇだろ?」
「…そうだな、」
それに同意して立ち上がったのは張遼殿。
さっさと席を離れ扉に手をかけ、出て行き際にちらりと私を見た。
「明日こそ、上策を聞かせてもらいたいものだ」
それが、私に向けられた言葉なのだという事は視線で解る。
肯定も否定も、私にはできなかった。
ざわめく室内の中、扉は閉められる。
私も、席を立った。
眩暈がする。
廊下の手摺に掴まるようにして、それをやり過ごした。
やはり、多人数は嫌いだ。
特にあんな狭い場所では。
眩暈と、頭痛と、吐き気と、それから。
ああいう場所は好きではない。
だから、嫌だと言ったのに。
「………くそ」
その場にしゃがんで堪えると、後ろから声がした。
「あぁ、やっぱりな」
「………?」
何がやっぱりだ。
と、言いたかったのだが、言う気力もなくて振り返ると、
そこには先程会議を打ち切りにした男が。
「お前、さっきから辛そうな顔してたからな。
大丈夫か?」
私の向かいにしゃがみ込んで、夏侯淵殿は私を見た。
「部屋まで戻れるか?」
「………余計なお世話だ」
今度こそ私は声を出してそう言って、伸びてきた手を払った。
夏侯淵殿は驚いたような顔でこっちを見ている。
私は他に何も言う気が起きなくて、何とか立ち上がると彼に背を向けて、
部屋に戻るために歩き出した。
「なぁ、」
後ろから彼の声が聞こえて、私は歩みを止めた。
「…何か?」
「アンタの頭ん中には、もう策が出来てんだろ?」
「………」
「いい加減あの欝陶しい軍議、終わらせようぜ」
まだ私には。
私には、期待を寄せてくれる連中が居たのか。
張遼殿といい、夏侯淵殿といい。
「…まだ、」
「ん?」
「まだ、穴があるのだ」
振り返って、改めて夏侯淵殿の顔を見た。
真剣な目が私を見ている。
本気か。
「私の評判は、知っておられるか」
「おう、最悪だな」
「だから、私の策は完璧でなくてはならない。
誰も否を唱えられぬような、完璧なものを」
「………」
「もう少し練る必要がある。
あと一日、待ってくれ」
私を必要としているのなら。
「でもよ、アンタ体調が悪いんじゃないのか?」
「案ずるな」
随分と、気分は楽になってきた。
気持ちにも余裕が出てくる。
「単なる人酔いだ」
また明日、とだけ告げて、今度こそ本当に私は彼に背を向けた。
彼と話す事は、不思議と気分は悪くなかった。
「…変なヤツ」
夏侯淵殿のしみじみとした呟き。
聞こえているぞ、馬鹿めが。