第15幕:矛盾
思わず苦笑が零れ出る。
どうして自分はこんな所に居るのだろう。
こんな所で、一体何をしようというのだろう。
……否、何を求めているのだろう。
今ここに立つ、その意思は誰のものなのだろう。
自分のものか、自分以外の誰かのものか。
そこまで深く自分の胸の内を追究して、また同じところへ辿り着く。
今の自分は、本当に『自分』として成り立っているものなのか。
何故ここに居るのかは解らない。
ここに居ても、そして彼と話をしても、きっと傷付くのは自分の方だ。
それは解りきっているのに、それでも。
それでも、この場所になら、救いがあるような気がした。
ああ、そうや。
ずっと俺は、救われたかったんや。
傘を手にあちこち忍足の姿を捜し歩いたが、結局見つからずじまいで一旦家へと戻ってきた。
家の前の通りを歩いていて跡部が思わず立ち竦んでしまったのは、きっと驚いたからだろう。
ずっと自分達が捜していた相手が、自分の家の前でぼんやりと佇んでいたからだ。
呼び鈴を押した様子も、誰かを待っている様子も感じられない。
ただ、そこに居る。それだけの印象だった。
希薄。そう言えるだろう。
逃げ出すぐらいに避けていたこの場所に居る理由が跡部にはまだ理解できなかったが、
ひとつだけ、今忍足を逃がしてしまえば恐らく二度と掴まえる事はできないだろうという、
そんな予感だけが、跡部の足をその場から動かした。
「そんなとこで何やってんだテメェ」
「……跡部、」
「傘はどうしたよ」
「……どっかでなくしてしもたみたいや」
「そうかよ………まぁいい、入れ。
タオルぐらいは貸してやる」
忍足の腕を強く掴むと、そのまま跡部は家の中へと連れて入った。
拒まれるかと構えていたのだが、そういう気はないらしく大人しく忍足はついてくる。
まずはタオルと服を貸してやって、バスルームに放り込んできた。
その間に跡部は携帯で向日に連絡を入れた。
彼はまだ、外を捜し歩いている筈。
暫しのコール音のあと、元気良く返事をしてきた相手に向かって、
「俺だ。やっと忍足を見つけたぜ。今家の中に入れた。
それで……俺にひとつ考えがあるんだがな、」
いくつか向日に指示を出してから、跡部は携帯の電源を切る。
あとは忍足の、化けの皮を剥がしてやるだけだ。
携帯を自分の机に放って、ソファに腰掛けると跡部が深く吐息を零した。
「…全く、どこまでも世話の焼ける」
でもそれが不快でない事の理由にまでは、思い至っていなかった。
「…おおきにな、風呂まで借りてしもうて」
「気にするな。服のサイズはどうだ」
「問題無いで。俺もお前も似た背格好やしな、ピッタリやわ」
「そうかよ」
バスルームから出てきた忍足は、タオルで頭を拭きながら跡部の言葉にそう答える。
話す感じでは、普段の忍足と何も変わらない。
跡部が手招きをして呼び寄せると、忍足は素直に跡部の隣に腰掛けた。
さて、何からどう切り出したものか。
「……お前、何で俺んちの前に居たんだ?」
「なんでやろなぁ……実は、よォ解らへんのや。
気がついたらあそこに居てん」
「何だそりゃ」
「いや、ちゃうな。行こう思て、ここまで来たんや。
でも……なんで『行こう』って思ったんかが、解らへん」
「俺に何か用でもあったのか?」
「………わからん」
ゆるりと首を横に振って、項垂れるように忍足が頭を垂れた。
自分の問いにはちゃんと答えようとしている忍足に、跡部が僅かに目を細める。
何かが引っ掛かるのだ。
逃げるほど避けていたくせに、今は借りてきた猫のように大人しい。
ふいに跡部が忍足に向けて手を伸ばした。
さすがにそれは避けるかと思ったのに。
「…? どうしたん?」
肩に触れても嫌がる事無く、不思議そうに首を傾げてくる。
唐突に、解らなくなった。
……どれが本当の忍足だ?
「岳人の奴が……言ってたんだけどよ」
「何?」
「お前に憑いたヤツ、お前は自分で女だって言ってたろ?
だけど岳人が聞いた声は、女じゃなくて男だって言うんだ」
「………おと、こ……?
そんな筈……あらへんよ、間違いないで、女やって。
岳人が間違えたんと違うんか?」
「その可能性は否定できねぇが……だが、少なくとも岳人の能力は俺が
目の前で見てるからな。一概に間違いだとは言いきれねーよ」
あの時、迷う事なく自分を導いた向日の耳は、充分に信用するに値する。
「だけど、お前が嘘を吐いているようにも、見えねぇな」
「当然やんか。嘘なんて吐いてへんし」
「……じゃあ、質問を変えるか。
お前、まだ俺達に話してない事が、あるんじゃねぇのか?」
「……ッ、なんで……、そんなもん無いで…?」
「いくつか、腑に落ちねぇ事があるんでな。
疑問に思った事をそのままにしておくのは、俺の性に合わねぇんだ」
腑に落ちないとい疑問というより、それは忍足自身の矛盾といって良かった。
隠すくせに、唐突に話す。
逃げるくせに、いきなり大人しくなる。
知らないと言うくせに、覚えている。
助けて欲しいと思っているくせに………拒絶する。
「関わったらあかんて、言うたやん」
「……岳人の奴が」
「岳人?」
「岳人の奴が、泣くんだよ。
お前を助ける事ができねぇって、何の力も無ぇって、泣くんだ」
「…………。」
忍足の視線が揺らいで、逸らすように外された。
「……お前は、友達の胸の内も汲んでやれねぇほど、保身的な人間なのか。
それとも……」
「友人風吹かせられるのは、嫌いやねん」
「あン?」
「せやし…言うてるやん。友達や親友や、そんな立場でトクベツになった気になりなや。
それで俺の内側まで根掘り葉掘り掻き出そうとするのは迷惑やし、そんな理由で
お前らにそこまでの権限があるなんて思えへん。
それに……もし例え俺がお前らに話してへん事があるからって、そしてそれを
お前らに話したからって……正直、何かが変わるなんて思えへんわ」
古傷が疼く。
ぎゅ、と右の脇腹あたりのシャツを掴んで、忍足は苦々しく呟いた。
「聞いたら絶対、手に負えへんって、お前らは言うで」
ああそうか、と漸く跡部は理解した。
要するに、ほんの少しも自分達は信用されていなかったという事だ。
核心の部分を話さないのは、聞けば自分達が投げ出すと思っているからだ。
少なくとも、その程度の…いわば興味本位でしか無いのだと、そう思われているという事だ。
確かに、最初は興味だったけれど、それでも。
それでも、今は。
「………ナメてんじゃねぇぞ、忍足よォ……」
「は…?」
考えれば考えるほど、跡部の怒りは増す。
自分達の努力も、気持ちも、向日の涙も、何もかも。
全て『その程度』というランクで括られていたという事が。
「フザけんな!!テメェは俺らを何だと思ってやがる!!」
「…ッ!?」
突然掴みかかられて、驚いたように忍足が目を見開いた。
構える暇すら与えられず、忍足がソファに倒れるように押し付けられる。
その首元を、跡部の掌が掴んだ。
「手に負えねぇ?それが何だ。
この俺様がそんな事で逃げるとでも思ってんのか!?
随分ナメられたモンだよなぁ。なァ、忍足?」
ぐ、と掌に力を篭めると、忍足の口から苦しげな息が漏れる。
「結局お前は、岳人の覚悟も俺の意思も、何ひとつ解ってねぇ。
解らねえんじゃねぇ、解ろうとすらしてねぇんだ。……そうだろ?」
「………ゃ、」
「アーン?」
「あ、あか…ん、放……ッ、」
忍足の全身が、総毛立つ。
恐怖を顔中に張り付かせた真っ青な表情で。
「イヤや!!放せ!!」
「うわ…っ!?」
普段の忍足からは考えられないぐらいの力で、跡部の身体を突き飛ばした。
尻餅をついた跡部が眉を顰めて忍足を睨みつける。
だが、それは罵声までには至らなかった。
「お、忍足…?おい、大丈夫か?」
自分の首元に手をやって、忍足が苦しそうに息を吐く。
そしてその手は肩を抱き、震えるそれを押さえつけようとしている、そんな風に取れた。
脅しのつもりであったから、息が出来ないほど絞めたわけではない。
だが、傍から見ていても尋常でないその様子に、跡部が慌てて忍足の身体を支えた。
「しっかりしろよ、そんなに苦しかったか?」
「ち…ちゃうねん。ちゃうねんて。
首だけは、今はあかんねん。ちょお、色々あって……」
「……?」
「なぁ……跡部、」
はぁ、と小さく吐息を零して、漸く落ち着いた身体をソファに投げ出したまま、忍足がぼんやりと
天井を見上げた。
「俺が言った事、覚えとるか?」
「何が、」
「暴行の末の絞殺って……書き方はえらい遠回しなんやけどな。
要は強姦に合うて、尚且つ首絞められて殺されたんやわ。
どんな気分やったか……きっとお前には、一生理解でけへん」
「………。」
「同じ目に合わへんと、理解なんてでけへんのや」
ゆっくりと身体を起こして、忍足が真っ直ぐに跡部を見た。
これから忍足が何を話すのか、それは現段階では解らない。
だけど、それでも。
「それでも、聞きたいって言うんやったら、話したってもええ。
それで、跡部がもう手に負えへんって言うんやったら、それでもええ。
………ハナから、そんなもん期待しとらへん。
今の俺はそう思っとる。それでもええか?」
もしも本当に、この場所に救いがあると言うのなら。
もしも本当に、救う手立てがあると言うのなら。
「俺は逃げねぇ。だからお前も、もう逃げるな……忍足」
漸く今、真実を知ることができるような気がした。
<続>
だけど跡部は自分の中の致命的な間違いに、まだ気付いていない。
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