第14幕:危険人物
それは激しい雨の降る、日曜日の事だった。
監督であり顧問であり、その前に音楽教師である榊が、教職員の研修で留守になる事も重なって、
今日一日、部活は中止となった。
突然振って湧いた休日を楽しむ者もいれば、身体を休める事に専念する者もいる。
そして、そんな休みを持て余す者も、いる。
跡部景吾はどちらかといえば、休みは持て余してしまう方だった。
普段、授業や部活動で忙しくしている分、急に休みを貰ってしまうと困惑してしまう。
する事が無いわけではなかったが、じっと本を読むより身体を動かす方が性に合っている事は
自覚していたので、それもできない雨の日は気が滅入ってしまうのだ。
そんな今も、広いベッドに仰向けに寝転がり、読んでいた本は片隅に追いやって
ただ天井を眺めていた。
ぼんやりしているわけではない。頭は常に働いている。
少し前までは、いつも寝てばかりのジローをどうやって叩き起こすか、口より先に手が出る宍戸を
どうやって黙らせるか、食えない性格の滝をどうやって掌握するか、などともっぱら部長として
テニス部の問題児の事で頭を悩ませているのだが、今は的を一つに絞り込んでいる。
どうやって、忍足に憑いているヤツを追い出すか。
いまいち忍足の能力について、把握しきれていない部分が多い。
というよりは、彼はまだ何かを隠しているような気がしてしょうがないのだ。
そもそもシンクロして得る感情というものが、理解できていない。
それはきっと忍足自身にしか解り得ないものなのだろうけれど。
シンクロとは、錯覚みたいなものだと忍足は言っていた。
決して自分が起こしたものではない行動や記憶を、自分のもののように思ってしまうのだと。
向日の言った『疑似体験』というものとは違う、とも言っていた。
だとすれば。
例えばの話だが、仮説は立てられる。
「誰かに殺されたヤツが忍足に憑いたとして、シンクロしちまったらソイツの事を体験しちまう
事になんのか?考え方、生き様、死に方、全部ひっくるめてよ……。
いや、体験は違うな……それじゃ『疑似体験』の方になる」
ぽつりとそう呟いて、跡部はゆっくり目を閉じた。
記憶・行動・感情、それを全て『体験せず』自分のものにしてしまうのだ。
だから、体験でなく『経験』や『記憶』と言った方が正しいのだろう。
一瞬脳裏を掠めたのは、自分でも考えて吐き気がしてきたぐらいに恐ろしい仮説。
つまり、忍足侑士は。
「……そんな事ばっかり、押し付けられてんのかよ……」
要するに、こういうことなのだろう。
例えば、ナイフで心臓を一突きにされて死んだ霊が忍足に入ったとする。
殺された人間が最後に見たのは、恐ろしい殺人鬼が自分に向かってナイフを振り下ろそうと
している、そんなシーンだったのかもしれない。
もちろん、そこで即死だったのであれば、霊の記憶もそこまでだ。
だが、もしかしたら。
もしかしたら、それまでに必死で、死ぬ気で走って逃げ惑っていたかもしれない。
もしかしたら、刺された後も少し息があって、『痛い』と思ったかもしれない。
『苦しい』と思ったかもしれない。『怖い』と思ったかもしれない。
問題は、ここからだ。
それが全て、忍足のものになってしまう。恐らくそれが、【シンクロ】だ。
殺人鬼に刺されそうになったという記憶も、痛いと、苦しいと感じた、思いも。
全てが忍足の『経験』として変換されてしまうのだろう。
だから錯覚だと、彼は言うのだ。
「………正気の沙汰とは思えねーな………」
今までに彼は何度、憑かれてきたのだろうか。
今回のように殺された者かもしれない、もしくは、自殺した者かも、病気や事故で死んだ者
かもしれない。
恐らく彼はその数だけ、『恐怖』を押し付けられてきたのだろう。
もちろん、あの忍足はちゃんと心臓が動いているし、ちゃんと生きている。
確かに『疑似体験』では無い。
こんなものを疑似体験などしてしまったら、いくつ心臓があっても足りないだろう。
なんとなくだが、少しずつ忍足の言っていた事が解ってきた気がする。
しかし、ここで思考は強制的に停止させられた。
机の上で携帯が鳴っているのに嘆息を零して起き上がると、跡部が重い動作で
それに手を伸ばした。
着信は電話で、相手は向日だ。
それに訝しげに眉を顰めると、跡部は通話ボタンを押した。
「どうした、岳人」
【ゴメン跡部!!今忙しいかっ!?】
電話越しに聞こえる向日の声音は、心なしか焦った風に聞こえる。
「俺様はいつでも忙しいんだよ……と言ってやりたいところだが、
テメェの方がそれどころじゃなさそうだな。
どうした、何かあったのか?」
【一緒に侑士を捜してくれ!!】
「………………は?」
【ついさっきまで一緒に居たんだけど、ちょっと目を離したスキに居なくなって!】
またか…と正直、ため息が出る。
「今度は何してたんだ」
【なっ、何もしてねーよっ!!
侑士に買い物に付き合ってもらっただけだって!!
急に傘放り出して走ってったみたいだ。
捜したけど見つかんなくて…】
俊足の向日を撒けるなんて、大した足だ。
何となくぼんやり考えて跡部が携帯電話を手に窓際まで歩く。
どんよりとした空模様。雨は尚も降り続いている。
「それでお前、今どこに居るよ?」
【今?お前んちの前。】
「……何っ!?」
いつも引いてある薄手のレースのカーテンを勢いよく開ける。
そこから真正面を見ると、門の傍に傘を差して佇んでいる向日の姿を確認できた。
「テメェ、どこで忍足を見失った?」
【えーと……お前んちの前の通りをずっと向こうに行ったら、大通りに繋がる道が
あるじゃんか?その辺かな】
「…………。ああ、そうかよ」
それだけ言うと、跡部が電話を切る。
あとは直接怒鳴りつけてやらなければ気が済まない。
バン!と突き飛ばすように窓を押し開けて。
「馬鹿野郎!!テメェは学習能力がねェのかッ!?」
いきなり塀の向こうから飛んできた罵声に、危うく向日が携帯を落としそうになる。
「うッわ、ビックリした!!おどかすな跡部!!」
「いいからテメェはちょっとこっちに来い!!」
「へ?上がっていいの?」
「さっさとしねぇか!!」
「うわハイハイ、おっかね〜……」
盛大に眉を顰めて睨んでくる跡部に思わず肩を竦め、どんなお小言を食らうのかと
内心肝を冷やしながら、向日は玄関の扉を押し開けた。
恐らくきっと、忍足が逃げたのは向かう方向に跡部の家があったからだ。
向日自身は特に気にもしていなかったのだろう、ただ単に跡部の家の前を通る、その程度の
認識しかなかったわけだが、忍足はそうじゃなかったのだろう。
そう思うだけの要素は、先日の部活後の一件で解りきっている。
忍足は、跡部を危険視している。
少なくとも今なおシンクロ(=錯覚)が続いているとなれば、尚更だ。
家の前を通れば、会ってしまうかもしれない。見つかって声をかけられてしまうかもしれない。
……触れられるかも、しれない。
忍足にとって、逃げるには充分な要素だ。
何がどういった思惑で忍足が跡部を危険だと言っているのかは解らないが、あの時自分の
目の前で逃げ出した時の状況を考えると、恐らく間違いないだろう。
避けられているという感覚はない。
その次の日の部活でも、至って普通に話す事ができた。
嫌われているわけでは無さそうだ。
だから、きっと、何か理由がある筈。
向日を部屋に入れると、跡部はそう物分りの悪い子供に話して聞かせた。
「て事は…俺があの道をこの方向に歩かなきゃ、侑士は逃げなかったって事か?」
「多分な。やっぱり俺は、忍足がまだ何か隠してるような気がしてならねぇんだが」
部室で遅くまで話していたあの日以降も、何気ないフリで忍足の肩に触れてみたが、
感触は何も得られないままだ。
基本的に跡部は、己の目で、耳で、手で、身体の何処かで何か感じた事しか信用しない性質だ。
だから、本当に忍足に何か憑いているのかと、疑ってしまうのだ。
「なあ岳人、お前はまだ忍足から何か聞こえてるか?」
「……ん?まぁ、時々……小さいけど。まだ声だよ」
「確か忍足は女の霊だつってたよなァ……女ってのはどうしてこうもしぶといんだ」
鬱陶しいんだよ、と髪をガシガシ掻きながら苛ついた口調で跡部が呟くのに、
向日がハッと顔を上げた。
「…………女?」
「あん?どうしたよ」
「違う………あれ、女じゃないぜ…?」
ぶんぶんと首を横に振りながら言う向日に、跡部が眉を顰める。
「……どういう事だ」
「だから、聞こえてきてる声は女じゃないんだって。
あの声はどっからどう聞いても男だよ!!」
もしも憑いているのが子供の霊なら判別は難しかったかもしれない。
だが声変わりした後の男と女の声は、余りにも違いがありすぎる。
性別を判断するなど、容易い事だ。
「初めて聞こえた時は気が動転してて。それにちょびっとしか聞こえてなかったから
それが何かなんて解んなかったんだけどさ、今はもうちょっとハッキリしてるぜ。
まぁ…何言ってるのか聞き取るところまではできてないけど……でも絶対。
あれ、絶対に男だ」
「マジかよ……冗談じゃねェ。
つーか、そういう事はもう少し早く言えよ」
「って、俺、侑士が話してくれた事、あんまり覚えてねーんだもんよ」
忍足が言っていた自分に憑いている霊についての事など、今跡部に言われるまで綺麗サッパリ
忘れていた。
怒りを通り越して呆れた顔をみせると、向日がどこかばつの悪そうな表情で視線を逸らす。
「とにかく忍足を捕まえるぞ。話はそれからだな」
「了解ッ、とりあえず心当たりを捜しまくってくる」
「待て、俺も行く」
立ち上がってクローゼットに向かうと、跡部はジャケットを取り出して羽織る。
それに驚いたような表情を見せたのは向日だ。
「お前も行くのか?」
「テメェが一緒に捜してくれって頼んできたんだろうがよ」
「そりゃそうだけど……でも、」
跡部の姿を見たら、忍足はまた。
「この俺様が逃がすと思ってんのかよ、アーン?」
「いや、思ってねーけどさ」
「……逃げられるってのは、あまり気分のいいモンじゃねーんだよ。
絶対に捕まえてやる」
いつになく本気の目をして、跡部がそう言った。
彼のこんな表情を見るのはテニスの試合の時ぐらいだ。
捕まえた後が怖そうだ、と向日は傘を差しながらバレないように吐息を零した。
<続>
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