第10幕:声
たまにはジローにも練習させねばと、跡部がジローを叩き起こしてコートに放り込んだ。
その練習相手は、同じくサボリ魔と称されつつある忍足侑士。
練習模様を眺めながらベンチに座って休憩を取っていると、傍に人の気配がして
視線を横に向ける。
自分の隣に、ちょこんと向日が座っていた。
「何か用か」
「……あのさ、侑士が言ってたんだけど」
「ああ」
「最近、跡部率が高いってさ」
「……どういう意味だ?」
怪訝そうに眉を顰めて跡部が不機嫌な声を漏らす。
それにも全く動じた風も見せず、向日が答えた。
「だから、最近よく侑士の傍に来るだろ、お前」
「さァ、知らねェな」
「………侑士、やっぱり知らないみたいだ」
突然話がどこかに飛んで、跡部が首を小さく傾げる。
時々、向日の話は要領を得ない時がある。
それは大体にして、向日自身にもよく解っていない話をする時だ。
「もしかしてその辺が、繋がってるのかなぁって、思ってさ」
「………?」
「跡部、もしかして何か気がついてる事、あるんじゃねーのか?もし何か、」
「ちょっと待て、岳人」
驚いたような声を上げて、跡部は向日の話を中断させる。
自分だけだったのだろうかと、疑惑が浮上して。
「岳人、お前もしかして……聞こえてたワケじゃねェのか?」
「??何が??」
「忍足に寄って集ってる、アレの音だ」
「アレって………えェ!?」
思わず大きな声が出て、慌てて向日が手で自分の口を押さえる。
恐らく跡部の言うアレは、自分にしか聞こえない、もう存在しない者達が奏でる【音】の事。
だが、ここ暫く…いや、去年の一件以来、彼の傍で音が聞こえた試しは無い。
もちろん今も、だ。
「ウソ…だろ?」
「嘘言ってどうすんだよバーカ」
「何で跡部が解るんだよ!?」
「アーン?祓ってるからに決まってんだろーが」
今日だって、桜を見ていた時も、昼休憩の時に話していた時も、何気なく忍足に触れてみた。
その度に掌に感触がある。
身体に触れたという感触ではなくて、冷たい氷に触れたような。
そしてそれを押し割った瞬間に、その感触は消え失せる。
触れる度にそのような状態だったから、きっと忍足は【寄せる】体質なのだろうと判断した。
それだけの量が集っているのだから、てっきり向日も聞こえているものだと思っていたが。
よく考えれば、向日からそんな話を聞いた事は一度もなかった。
「俺……全然聞こえなかったけど……」
「能力無くなったんじゃねェの?」
「そんな事ねーよ!今だって、あの辺でふよふよ飛んでやがるの聞こえてるぜ?」
言って、クラブハウス近くの桜の木を指差して向日が主張する。
「じゃあ……一体何があるってんだ……?」
「解らねェ、けど……」
跡部の言葉に向日がコートの中の忍足に目を向けた。
ジローの返し易いようにボールを放ってやり、時々楽しそうに笑っている。
無性に、不安になった。
「なんか………侑士が心配だ」
「あァ……、そうだな」
去年みたいなのは御免だぜ、と跡部がうんざりしたように肩を竦めてみせた。
実際、忍足の姿が見えなくなるのは、ほんの一瞬、誰もが忍足の姿を見なくなる、
本当にほんの一瞬の事だ。
その隙間を掻い潜って、いつも忍足はどこかへ行ってしまう。
どこへ行こうとしているのか、何がしたいのか、それは誰にも解らなかった。
まだ芥川のように惰眠を貪るほうが【目的】としてはハッキリしている。
それに引き換え、忍足の場合は何をしているのかすらよく解らない事が多い。
とりわけ多いのは、ぼんやりしている事だ。
花を見つめていたり、空に目をやってみたり、または何もない宙を見ていたり。
傍から見れば不審者そのものだ。
そして誰もが彼から目を離した隙間を縫って、また何処かへ消えた。
「おい岳人、忍足は何処行きやがった?」
「え……あれっ!?本当だ、ついさっきまで居たのに……!!」
夕暮れのコート、練習自体はもう終了していて、跡部はコートを片付ける下級生を
見張るように眺めていて、岳人はほんの少し、芥川と話をしていた。
つい今しがたまで、そこに忍足も居たのだが。
「またー……何処行っちまったんだよ侑士〜……」
「部室に戻ったんじゃねェのか?」
「いや?居なかったけど?」
跡部の言葉に返事をしたのは向日ではなく滝で、既に着替え終えて制服の姿だった。
フェンスを潜りコートに入ると、滝は跡部の隣に並ぶ。
「どうしたの?」
「忍足が消えた」
「またなの?まぁ、練習は終わったから良いけど…その内監督に怒られるよ?」
最悪、レギュラーから外されたりなんかしたら堪んないよね、との滝の言葉に
青褪めたのは向日だ。
「お、俺、侑士捜してくる!!」
ばたばたと駆けて行く向日を眺めて、滝が困ったように嘆息を漏らした。
「だけど…ホント、最近忍足行方不明なの多いよ?
ジローなんかはまだ、目につくところで堂々とサボってるから良いけど」
「サボってるなんて言うなよォ、人聞き悪いC〜」
「じゃあ何だって言うのさ」
「う〜ん……睡眠学習?」
「嘘ばっか」
ジローの言葉に滝が笑う。
その間、ずっと何か考えるようにしていた跡部は、滝の肩をポンと叩くと
「お前がジローのお守りな」
と言い置いてコートを出た。
実際、跡部も気がかりだったのだ。
桜の季節に入ってから、目に見えて忍足の様子はおかしかった。
こうやって時折姿を消すようになったのも、最近の話なのだ。
忍足が一体、何をしたくて何処へ行こうとしているのか。
そして向日にも聞こえないモノの存在が、より一層焦りを生んだ。
もしかすると……向日の能力でも感知できないやっかいなモノが、
忍足を蝕んでいるのではないか、と。
それはあくまでも予測であって。
だが、それは限りなく真実に近い、そんな気がした。
消えた忍足を最初に見つけるのは、大体が向日である。
もっぱら捜しに行く役目は向日なのだから、それが当然の話だ。
そして、また忍足を妙なところで見つけた。
去年の今頃、向日が旧クラブハウスへ向かうのに通った道だ。
裏庭の、余り日の当たらないような場所で、彼はただ佇んでいた。
ぼうっとした表情で、その視線は何処を見ているのか定かではない。
「侑士、こんなところに居たのかよ!
本当に、いい加減にしねーとドヤされても知らねェぞー?」
忍足の元へと向かいながら向日がそう言葉を投げかける。
だが、彼からの返答は無い。
訝しげに表情を歪めて向日は忍足の前に回り込むと、その表情を覗き込むように見上げた。
「おい侑士、聞いてんのかよっ!?」
どこか焦点の定まらない忍足の瞳が、向日を捉えた。
「………なんや……お前、」
「……侑士?」
様子が変だと気付いたのはすぐだ。
「なんで…俺、こないなトコに……」
「ちょ、侑士、お前なにふざけて…」
「………誰や、あんた」
「侑士…!?」
思わず手が伸びて、忍足の肩を強く掴む。
冗談にしては、忍足の自分を見る目が余りにも冷たすぎる。
「何言ってんだよっ、侑士!!」
「わ……っ、」
不審な目で見る友人の肩を強く揺さぶると、声を上げた彼の目が。
「あ………れ、……岳人……?」
今度こそ、焦点を合わせて自分を見た。
「ちょお、待ってェや………な、んで、俺………」
「お前……顔、真っ青だぞ?」
「なんで……俺、あの時、確かに………」
「侑士、とにかく部室に戻ろうぜ?
話はちょっと休んでからで良いからさ、」
腕を引っ張って行こうとする向日の手を忍足が振りほどく。
さすがに苛ついてきたのか、くるりと向日が振り返った。
辛辣な言葉を投げかけるよりも前に、忍足が口を開く。
「なんで、俺、生きとるん……?」
「………え、」
【……………ッテ…】
呆然とした表情で、忍足が絞り出すような声を漏らす。
それと同時に向日の耳の奥で、別の声が聞こえた。
実際、それはほんの微かなものだったから、聞こえた気がしただけなのかもしれない。
しかし向日には妙な確信があった。
もしかしたらそれは、先刻テニスコートで跡部とあんな会話をしたからだろうか。
だから、そんな微かな声音でも。
「………侑士………?」
今この時の向日は、確かに混乱していたのかもしれない。
『音』が『声』に変わったという事は、より思念の強いモノが居るということ。
それが忍足の身体(精神的な部分も含めて)を蝕んでいるのだろうという事は、解る。
だが、今、忍足は何と言った?
「俺……確かに、死んだ思うたんやけど、な……」
ぽつりと独り言のように呟いて不思議そうに首を傾げる忍足が、どこか知らない人に見えた。
<続>
|