第8幕:薄氷の壁

 

 

 

「どこまで連れて行く気だテメェ!!」
「もうちょっと!!」
足は向日の方が速いようで、彼に腕を掴まれたまま本気で走られるとついて行くのがやっとだ。
それが何だか気に食わなくて跡部が声を上げると、叩きつけるような返事が戻ってくる。
どうあっても腕を離す気はないらしい。
鬱陶しいと思いながらもついて行くと、旧クラブハウスの棟まで出てきてしまった。
「……向日、お前いい加減にしろよ……」
「解ってるって、ちゃんと後で説明するってば!!」
とにかくついて来てくれよと言われて、仕方無く肩を竦めて後を歩く。
どのみち5限の授業は始まってしまったのだから、しょうがない。
半年前まで使っていた自分達の部室の扉を、向日がそっと押し開けた。
「侑士、居るかー?」
キョロキョロと辺りを見回して、大きく目を見開くと中に飛び込む。
「アイツ……あんな状態で何処行ったんだよ!!」
「なんだ、何も無ぇじゃねーか」
後ろから覗き込むように見た跡部が眉を顰めてぽつりと呟く。
確かに出る時にソファの上へ寝かせた筈の忍足の姿は、今は何処にも無い。
あれだけ煩くざわめいていた音も消え失せて。
思わず後ろを振り返って少し上を見上げると、訝しげに表情を歪めた跡部と視線がぶつかった。
「いない……侑士が、いなくなった……」
「ちょ、おい……」
跡部には先刻から話題に上がっている忍足よりも、この世の終わりのような表情をしている
向日の方が心配だった。
そもそも忍足が、何だというのだ。
どうしようどうしようと悲壮な顔をして呟く向日の首根っこを掴むと、跡部は中のソファまで
引き摺るように連れて行って座らせる。
跡部自身はテーブルを挟んで向かいのソファに腰を下ろすと、優雅な動作で足を組んで
盛大な吐息を零した。
「いい加減に説明しろ。一体何がどうなってやがんだ、あァ?」
「さっき、侑士が、此処に居て、」
「忍足は朝練サボってやがっただろ?
 朝からずっと宍戸も言ってたが、そもそも今日は学校に来て無かったんじゃねェのかよ」
「それは、そう、なんだけど……でも、居たんだ。此処に、居たんだ」
「ていうかそれ以前に、なんでテメェがこんな場所に来る必要があったんだ?」
「それは、えっと………呼ばれて?」
「忍足にか」
「違うよ、そうじゃなくて、ああ、呼ばれたんじゃない、聞こえたんだ。
 その音が……………あ、そっか、」
漸く落ち着いてきたのか暫し考えた末に、向日がぽつりと漏らす。
「ちゃんと1から話さないと、さすがの跡部も解んないよな?」
今更な発言に、跡部が苛つきを隠す事無く目の前のテーブルを足蹴にした。

「今頃気付きやがったのか、馬鹿野郎が!」

 

 

 

 

自分の事といっても、そう色々話す事があるわけではない。
必要な所だけかいつまんで説明すれば、一を聞かせると十を知ってくれる跡部は
大体の状況を掴んでくれた。
「フン……成る程な。それで俺様の力が必要だって言うのか」
「完全にダウンしてたから、とりあえず侑士を此処に寝かせてお前の所に
 行ったんだけど……なんで?何処行ったんだよっ!!」
「俺が知るわけねェだろうが。
 お前が居ない間に気がついて、何処へなりと出て行っちまったんじゃねェのか?」
「そんな筈は……だって、あんなに、」
まだまだ寄って集っている状態だった群れを引き離せるとは思えない。
大体、沢山抱えてる人間は今にも倒れそうな顔色をしているのが主なのに、
忍足に限ってはその例に嵌らないのだ。
眠るように意識を落としたが、顔色は悪くなかった。
普通、10も超えれば死にそうを通り越して死んでてもおかしくない筈、なのに。
「ふゥん……面白ェんじゃねーの…?」
「跡部?」
「お前の話を鵜呑みにするならば、そのままぶっ倒れてるか、もしくはいっそ
 息の根が止まっててもおかしくねェんだろ?
 なのに忍足は違う。ケタ外れの量抱えてるクセに、もしかしたら忍足は
 自力でヒョコヒョコ何処かに行っちまったって事だよなァ?」
「う、ん………そうなる、よな」
「これは忍足にも何か原因があるんじゃねェの?」
「え?それってどういう……」
「まぁ、忍足をとりあえず捜してみようぜ」
ソファから立ち上がって、跡部がさっさと外に出て行く。
慌てて後を追うように向日も旧部室を飛び出した。
「ちょっと、待てよ跡部!!捜すってどうやって……」
「まずは校内からだろうな。昼休みはともかく授業が始まると校門は閉まるから、
 出て行った確率は低いと思う」
「そりゃ、そうだけど。
 校内つっても広スギだし、先生に見つかったら俺らが説教じゃ済まされねーよ!!」
「だったらお前、何かいい考えあるか?」
「それは………っ、」
言い返そうとした口を、向日が噤む。
微かに耳の奥を貫いた、密度の濃い空気。
音が………

 

ひゅう。

 

「聞こえた!!」
「何?」
「ちょ、ちょっと静かにしてくれ」
目を閉じて、耳に全神経を集中させる。
空気の流れる方向を。
音が向かう先を。
せめて向きだけでも捉えられれば。

 

ひゅっ。

 

音が、何かに引っ張られるように動く。
目を開けて向日が音の向かった方向を指差した。
「あっちだ!」
「………マジかよ」
俺には全然解らなかったぜ。
苦笑交じりに跡部が答えて、向日の指差した方向に向かって歩き出した。

 

 

 

 

今の新しいクラブハウスへと向かう道は、ちょっとした桜並木になっている。
満開の今、風に揺られる度に花弁がはらはらと舞って、視界が染まる。
そんな中を、ただ一人で佇んで。
「……っ、侑士!!」
思わず向日が声を上げた。
それにゆるりと忍足が顔を向ける。
ぞっとするような白く透き通る肌に、紅い唇が鮮やかに映える。
唇が、笑みの形に象られた。口の端を持ち上げるだけの、緩い動作。
妖艶にさえ映る表情は、その桜の下で一層、美しく。
だがそんな姿を見た2人の背には、ぞくりとした悪寒が駆け抜けただけだった。
見た者全てが息を呑むような光景も、この2人に美しいなどと思える筈が無い。
だって自分達の知る忍足侑士という人間は、あんな風に笑う人間じゃない。
向日より遥かに接点の少ない跡部でさえ、それは知っている。
「おい…向日。聞いていいか」
「何だよ…」
「あの樹の下に居る、あれは、誰だ?」
「………忍足侑士だと思われる、何か」
「っそんな筈、」
ねェだろう、と続ける筈の跡部の口は、そのまま固まった。
忍足が自分達の方へ近づいてきたからだ。
「…っ、」
キン、と耳鳴りのような音を捕えて、向日は思わず眉を顰めた。

 

「あれ、岳人に跡部やん、どないしたん?」

 

研ぎ澄まされた剣のような、冷え切った氷のような、そんな表情のままで発せられた忍足の言葉は、
至って普段と何も変わらない。
あくまでいつもの忍足侑士だ。
「……どうしたもこうしたも、向日の奴が……って、おい、向日?」
忍足が近づいてくるにつれ、まるで何か警告でもしてくるように強くなる耳鳴り。
こんな音は初めてだ。それを怖いと感じたのも初めてだ。
忍足を怖いと、思ったのも。
きっとこれが初めてだろう。
「耳………痛ぇ………」
塞いだところで消える筈も無いのに、耐え切れなくて自然に手が耳を覆う。
「向日、お前、」
「ちょお、岳人?どうしたん?」
耳鳴りのおかげで跡部の声も忍足の声もやたらと遠く感じられる。
鼓膜が破れそうで、頭が割れそうで、神経が麻痺しそうで。
跡部の腕を掴んだのは、必死だったからだ。
「……ぅわっ!?」
急な事で全く予備動作が取れなかったのだろう跡部が、慌てた声を上げる。
その手首を向日が強く掴むと、思い切り忍足に向けて突き出した。
瞬間、奇跡が起こったと、向日は本気でそう思った。

 

「わっ!?」

 

跡部の手に突き飛ばされたような形で、忍足が後ろへ尻餅をつく。
その気配が、霧散した。
「ったた……ちょお、コラ岳人っ!!」
「お、収まった……?」
「何ワケわからん事言うてんねん!!」
耳鳴りはすっかり消えて無くなり、忍足の声もはっきりと耳に届く。
ホッと息を漏らすと、体中から力が抜けた。
ぺたりと座り込むとつい今しがたまで怒鳴っていた忍足が、気遣わしげな声を出す。
「ど、どないしたん、ホンマに……岳人?」
「う、ううん、何でもない」
ゆっくり首を横に振って、向日がへらりと笑みを見せる。
「ちょっと、気が抜けただけ」
「……ヘンな岳人やな」
向日の笑みにつられるように忍足も笑う。
いつも通りの忍足に心底安堵した。
氷のような笑みなんて、全然忍足侑士には似合わない。
彼はこうやって、ふわりと笑う男だから。
春の日差しのような、日向ぼっこをしてるときのような、そんな暖かい笑みを見せる男だから。

 

 

 

 

笑い合う向日と忍足の傍で、跡部はただ己の掌を凝視していた。
今の感触は、何だ?
いつも自分に纏わりつく鬱陶しいものを祓う時のような、そんな感覚ではなかった。
いつもはもっと……正に埃を掃うような、そんな感覚なのに。
それだけ、中に忍び込んだものの量が多かったという……そういう事なのだろうか。
まるで薄く張られた氷を手で叩き割った時のような、そんな感触だった。
普段と全く違うそれが、酷く心地悪い。
だけどこれはきっと。

 

「ふゥん………面白いんじゃねーの……?」

 

クセになりそうな、気がした。

 

 

<続>

 

 

※1年生の時の話はここまででひとくぎり。