第5幕:弾ける音
また自分の中に何か入り込んだ。
それに気がついたのは、部活中の事。
ヘトヘトになるまで動き回って、疲れが出たから気付いたのだろうか。
胸がざわつく感じと、時折脳内に現れるビジョン、声。
それら全てが自分のもののようで、自分のもののようでなくて。
普段はしっかり分別できるのにそれが曖昧になってしまうなんて、
随分しっかりとシンクロしてしまったものだと、忍足は小さく吐息を零した。
結局、あの傷を露にした状態で皆と着替えようという気も起きず、仕方無しに
忍足は居残りを決め込んだ。
そんな忍足をやはり気にしているのだろうか、先に帰れと言ったのに、
向日も忍足についてきている。
満開に咲いた桜を、綺麗だなーなどと言いながら飛び跳ねてついてくる姿は
さながら小動物のようで微笑ましい。
あちこち散歩のように歩き回って、結局戻ってきたのはテニスコートだった。
既に無人である筈のそこからは、何故かまだボールの音。
「うへぇ、まだ誰かやってんのかよー」
よく体力保つよなー。
言いながら呆れた表情を見せる向日に、だが忍足はそれがどこか気になった。
「誰なんやろ、こんな時間まで」
「見に行ってみる?」
「ああ、それもええなぁ」
部室からはざわめきが聞こえてきていて、まだ無人になる気配は無さそうだ。
向日の言葉に忍足が頷くと、2人はコート内へと足を向けた。
「………何だ」
背後から静かに近づいて驚かせる筈なのに、既に自分達の存在を気付いていたのか
声をかける前にかけられて、思わず絶句する。
「アカン岳人、気付かれてもーた」
「くそくそ跡部!!なんで解るんだよー!!」
「それ以前にどうしてこっそり忍び寄るような真似してやがんだ」
「「いや、だって」」
答える声は同時に出た。
邪魔したら悪いやんか。なー?
誰もいなくなったコートで一人ラケットを振り続けていた跡部の姿を、外で暫く呆然と
眺めてしまったのは真実だ。
失礼な話だとは思うが、彼に『努力』やら『汗』やら、そういう暑苦しい単語は似合わないと、
向日も忍足も勝手にイメージで思い込んでしまっていたからだ。
「まだ帰らないのか」
「あー…うん、もうちょっと、な」
そう少なくも無いテニス部の面々に、この傷を晒したくは無かったから。
それを言葉に乗せる事は無く、ただ表情に苦笑を浮かべて答えたのは忍足の方で。
並ぶ忍足と向日の顔を交互に見遣ると、跡部は自分のテニスバッグからラケットを一本
取り出し、忍足に向かって放った。
「ちょうど壁打ちにも飽きてきたところだったからな。
帰らねェんなら付き合えよ」
「……ええのん?」
一般テニス部員の中でも有力視されている跡部ならともかく、自分達にはまだ殆ど
実戦経験などあるわけもない。
勝負にならないのではと視線で訴えるが、跡部は面倒そうに肩を竦めただけで。
「俺ッ、俺も侑士と跡部の勝負、見たい!
俺が審判するからさッ!!
やってみなきゃわかんないだろ、な!?」
「うーん……ほな、ちょっとだけやで?」
困ったように頷いて、忍足もゆっくりとコートに足を踏み入れた。
日が暮れても星が出てきてもまだ3人でコートに居て。
6−3で跡部に負けた忍足が、漸く声を上げた。
「なぁ、もうボチボチ上がらへんか?
なんか部活の時より体力使てる気ィするわ」
「うわ、もう8時回ってる!!
もうさすがに皆帰ってんだろ。俺らも帰ろうぜ!」
その言葉に跡部も頷くと、ベンチに戻って置きっ放しになっていたバッグの中に
ラケットを放り込んだ。
それに、忍足も自分が持っていたラケットを返そうと、小走りに駆け寄って、
「あ、そこ、」
「へ?」
跡部の声にきょとんとした目を向日が見せた、瞬間。
がしゃどたん!!
「どあっ!!!」
「あーー!!バカ侑士!!何やってんだよもー!!」
暗がりで見えなかったのか、テニスボールの入った籠に突っ込んでしまった忍足が
盛大にスッ転ぶ。
籠から散らばったボールが、そこら中に逃げ出した。
「あたた……」
「どんな間抜けだ、テメェは」
「し、しゃあないやんか、見えへんかってんて。
鳥目なんよ、俺」
「って、お前ら、ボール拾えよっ!!」
一人せっせとボールを集めていた向日が、2人に向かって非難の声を上げる。
それに慌てて忍足も近くにあるボールを集め出した。
「跡部、お前も手伝えよっ!!」
「………チッ、何で俺様が……」
向日の言葉に思い切り嫌そうに眉を顰めつつ、それでも跡部は足元にあったボールを
籠に投げ入れ始めた。
ものの数分で、籠の中のボールは元通り収まる。
「手を煩わせた罰だ、忍足がそれ片付けてけよ」
「げっ、俺なんかいな!?」
「アハハッ、そりゃトーゼンだよな。頑張れ侑士ー」
「くっそ岳人……他人事や思うて……」
恨めしげに向日を睨んでから、よいしょ、と声を上げて籠を持ち上げる。
山盛りになったボールは、結構な重さがあった。
「あーくそ、重いなぁ」
「侑士ガンバレ!」
「言葉だけなんて嬉しないで。半分持ってや」
「やーだね!」
笑い声を上げながら、向日が前を走って行く。
その後ろを忍足が。
そして最後に跡部がコートを出て、フェンスの扉を閉める。
「…あ?」
その足元に、もうひとつボールがあった。
「ったく、しょうがねェ」
ひょいと拾い上げて、忍足の後を追いかけると籠の中に放り込む。
気付いた忍足が顔を上げた。
「あれ、まだ落ちとった?」
「ああ」
「悪いな、跡部」
「いいからさっさと歩け」
ぺしっと跡部が忍足の背中を叩いた、その時。
ぱん
「えっ?」
前を軽い足取りで歩いていた向日の耳に、音が混じる。
後ろから聞こえたであろうその音を確かめようと振り返ったが、重そうな籠を抱えた忍足と、
それを突付くように歩かせる跡部の姿しか目に入らない。
【何だ……今の】
普通の耳から入ってくる音とは違い、鼓膜の更に奥、耳の内側から聞こえたその音は、
紛れも無くあの種類のものの筈。
きょろきょろと見回していると、追いついた忍足が向日の横を通り過ぎた。
ひゅうっ
【居る……侑士の傍に】
慌てて追いかけようとして、
「何やってんだ、早くいけよバーカ」
後ろからやってきた跡部に、後頭部を叩かれて。
ぱん!!
今度は、思わず耳を塞ぎそうになる、大音量。
弾けるような音の後は、砂の流れるような、さらさらという音が続き、
やがてそれは霧散して消えた。
自分の周りには、もう何の存在も感じられない。
先刻後ろで聞こえた音も、跡部がそうさせたもので間違いないだろう。
自分を置いてさっさと歩いていく2人に、向日はぼんやりと視線を投げかけるだけで。
「あ……と、べ……?」
ぽつりと呟いた言葉は、当の本人には届かなかったようだ。
【まさか……跡部、】
これが、向日岳人が跡部景吾に対して最初に持った疑念であった。
<続>
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