君は聞いたことがあるか?
己の築き上げたものを拳一つで打ち砕かれる音を。
己の持つ世界が崩されていく、その、音を。
<The sound that the world is broken.>
それはほんの偶然だった。
予定の入っていない、部活も休みのある日曜日。
庭木に水をやろうと縁側に立ったところで、その姿を見つけたのだ。
「………まったく、」
家が隣同士な上に向かい合うように庭と縁側があって、幼い頃からよく背の低い
垣根を挟んで話をしたり遊んだりしたものだった。
もう少し年月が過ぎ背も伸びてきた頃には、その垣根も簡単に飛び越えられるように
なって、玄関から訪ねるよりも早いと横着をした事も何度だってある。
その向かいの家の縁側に身体を横たえて惰眠を貪っているのは、旧知の仲でもある
柳蓮二だった。
秋も深まり吹き付ける風が冷たさを孕むようになって、今だって上にもう一枚
羽織るべきかどうか迷うぐらいには肌寒さを感じる。
なのに寒さに身を震わせることも目を覚ますこともなく、ただ昏々と訪れる眠りに
身を任せているようだった。
「風邪をひいたらどうするのだ……馬鹿者が」
無防備なまでにその肢体を投げ出して眠る姿に深く吐息を零して、仕方無いと
靴を引っ掛けて縁側に下りた。
垣根をひょいと乗り越えて、相手側の敷地内へと侵入する。
真っ直ぐ迷いの無い足取りでその近くまで歩むと、ふと家の中が静かなことに
気がついた。
どうやら皆出払っていて、彼は留守番の役を仰せつかってしまったようだ。
暇を持て余してのこの惰眠という事なのだろう。
それならそれで、呼べば良かったのに。
どうせ自分も暇で尚且つ彼ならばその程度お見通しだっただろう。
「……いや、案外これも見越されていたのかもしれんな」
自分が縁側に立つことも、こうやって眠る彼の傍へと歩み寄ってしまうことも。
この男のデータ収集癖は昔からのある意味で悪癖とも呼べるようなもので、
そしてそれを駆使して罠を張ることも大好きなのだと知ったのは割と最近だ。
それまではあくまで『情報』と『盾』であるのだと思っていたデータが、
実は強力な『武器』であったのだと知った瞬間だった。
表面には出さなかったけれど、あれは自分の中で1、2を争うぐらいの衝撃だった。
だが、それに気付けたのは注意深く彼を見るようになってからで、そうでなければ
きっと未だにこの柳蓮二という男を勘違いしたままでいただろう。
守りの男だと思っていた柳の、意外なまでの攻撃性を。
「おい蓮二、風邪を引くぞ。起きんか」
「……う、ん…」
肩を軽く掴んで揺さぶれば、僅かに睫がぴくりと震える。
そのまま覚醒するかと思いきや、それだけだ。
「こら蓮二」
「ん………眠い…」
「なら一枚何か掛けるとかしないか」
「………面倒だ」
「…………。」
あまりの投げやりぶりに思わず閉口する。
そして柳はといえば、それだけ言うとまた満足そうに寝息を立てている。
たるんどる、と一言漏らしてまた吐息を零した。
しかし、秋の色に染まった庭木に、肌寒いとはいえ日の当たる縁側に、蓮二。
これはこれでなかなか絵になる風景だ。
いつだったか、もう何年か昔の話だが、これと同じ風景を見たことがある。
今ではもう見慣れてしまったが、あの時は正直その風景に見惚れてしまっていた。
そしてそれが、あまりにも自然に隣へ立つこの男の事を意識し始めるきっかけでもあった。
最初は興味。
そして以前と違い注意深く彼の事を見るようになってからは、いつも落ち着いて物静かな
彼の中にも様々な感情が眠ることに気がついた。
出さないわけでも隠しているわけでもなく、ただ、解り難いだけだったのだ。
理解できるようになってからは、より強く想うようになってしまった。
それでも何も言わずにいたのは、この当たり前のような風景を壊したくなかったからだ。
やはり自然に、こちらが何も言わなくとも傍にいて微笑んでくれる、その空気を
失くしたくなかったからだ。
だがそれも、そろそろ限界だろう。
一度壊れてしまったものは、そんな簡単に築き上げられるものではない。
そして再び築き上げたとしても、同じものになど二度となりようがないのだ。
「……風邪をひくぞ?」
傍に腰を下ろして顔を覗き込むようにして問うが、見事なまでの無反応。
そろりと手を伸ばしてその髪に指先で触れる。
そのまま手を下ろして頬を掌で包む。
吸い寄せられるように唇を寄せるその瞬間に、柳の瞼が薄く開いた。
そしてその奥に宿る、悪戯小僧のような光。
しまった謀られた、そう思ったのは唇を重ねた後だった。
「…………卑怯な」
「こんな分かり易い罠に引っ掛かる弦一郎が悪いと思うが?」
憮然としてそう言えば、くすくすと笑みを零しながら柳が身を起こす。
気付いていたのだ、この男は何もかもを。
「いつから気付いていた?」
「さぁ……明確な時など分からないな」
「嘘を言え」
「本当だ。それほどに………自然だった」
だからそれに言葉など要らないと思った。
敢えて言葉を出さなくても、この世界さえ守れれば、こうやって同じ時間を
共有することは容易いことと知っていた。
今この時に罠を張ったこともそう大した理由なんか無い。
ただ彼がどういった反応を示すのか、興味があったからというそれだけだ。
何がどういう風になろうと、共に立つのが彼ならばそう大した問題も無いだろう。
そこまで無防備に相手へ全てを許してしまう自分にこそ、驚きはしたが。
ぽつぽつとそう話して、最後に柳は肩を竦めた。
「さて、どうしたものかな」
「………そうか」
初めて明確に言葉で柳の胸の内を聞いた気がする。
そしてそれが真田自身と同じ方向を向いていたということも。
滑稽な話だが、どうやらそれが自分達のあるべき姿、なようだ。
「……仕切り直しといくか」
「弦一郎?」
「曖昧なままでいるのは、性に合わん」
「え、な…っ…?」
ぐいと強く肩を引いて腕の中に収めると、驚きのためか些か上ずった声が上がる。
分かりきったことを口に出すのは躊躇われるが。
「好きだ、蓮二」
「…………。」
その一言、たったの一言で自分の中の最後の砦が攻略されてしまった気がする。
築き上げてきたものがぶち壊される音を、確かに聞いた。
はぁ、と重く吐息を吐き出し、背中に回した手で強く服を掴むと、柳は小さく
呟くように声を漏らした。
「……必要か?」
「何がだ」
「俺の言葉は、必要か?」
「お前の言葉なら、聞きたいな」
分かりきっているので言葉が無くても理解はできる。
だがそれでは仕切り直しとは言えないだろう。
改めて口にするのは恥ずかしいのだろう、眉根を寄せて困ったように唸る柳だったが、
やや諦めたように肩を落とすと、ぽつりと囁いた。
「好きなんだ、弦一郎」
この当たり前のように傍に居る事のできる幸せを、これからも永く続くようにと
願いを込めるぐらいには。
「随分長い道程だったな」
「4年のロスだ」
「……蓮二、お前やっぱり分かっていたんじゃないか」
その4年をかけて培ってきたものは全て真田の拳ひとつで壊れてしまったが、
きっとそれも無駄ではないだろう。
今度は2人で立ち上げていくのだから。
「そうだ弦一郎、美味い羊羹があるのだが食っていくか?」
「それは良いな、頂こう」
立ち上がって居間を指差し言う柳に頷いて、真田も上がり込むために靴を脱ぐ。
それに頷いて台所へ向かおうとする柳の腕が、ふいに掴まれて強く引っ張られた。
「……ッ!?」
ぶつかる、と衝撃を覚悟し強く瞼を閉ざしたが、痛む筈の衝撃は全てもう一人の
腕で中和され、代わりに感じたのは唇に触れる熱い吐息だった。
「………弦一郎」
咎めるように視線を上げれば、さして悪びれた様子も無く。
「少しは、らしく振舞ってみようかと、な」
それには流石の柳も返す言葉が無く、僅かに赤味の差した頬を隠すように
踵を返す他は無かったのだった。
君は聞いたことがあるだろうか?
己の築き上げたものを拳一つで打ち砕かれる音を。
己の持つ世界が崩されていく、その、音を。
だがそこから新たに築いていけるものもあるから、さして怯えなければならない
ものでも無い。
今度は2人がかりで築いていく。
だから、きっと良いものができるだろう。
<END>
不幸な真田も見物なんですが(酷)、2人だけの時はやたら真田が格好良いと
かなり萌えです。私が。(苦笑)
格好良い真田は駄目ですか。いや、この話の真田が格好良いとはとても思えない
んですけどね…。(遠い目)
基本は柳が先手を打つんですが、後半で真田が逆転勝ちするような、
そんな展開が自分的に熱いです。