太陽の光を遮るものが何もない晴天の日も、薄く明るさだけを届ける曇りの日も、
そして、空が泣きだした雨の日も。
彼はずっと其処から動かなかった。
「ねえ、もう一週間になるよ?」
「……そうだな」
「手塚は放っておくつもりかい?」
「素性が分からない者を中に入れるつもりはない」
静かにそう答える声を聞きながら、不二は小さく肩を竦める。
自分からはそう言って梃子でも動かないくせに、どうせ誰かが見かねて中に入れて
やったとしても、それはそれで何も言わないのだろう。
全く、正直でないと思う。
窓から掠めるようにして窺えば、まだ彼は入り口前の階段に腰掛けて、
ずっと何処かを見るように眺めていた。
分厚めの眼鏡に隠されて、表情までは読み取れない。
ただ、何かをするでもなく、まるで何かを待っているかのように、彼はずっと
其処に座り続けていた。
強めの雨が降り出してかれこれ2時間程が経っている、これ以上放っておいては
風邪をひいてしまうだろう。
仕方ないか、と吐息を零すと不二はタオルを手に玄関へと向かった。
外から開けられないようにロックしてあった自動ドアの鍵を開けて、手動でドアを
開くと外へ出る。
静かに男の背後へ歩み寄ると、そっと肩に手を置いた。
「ねえ、こないだからずっと此処に居るけど、何か用かい?」
「…………え?」
「僕は不二。とりあえず君の名前を教えてもらおうかな。
風邪ひくといけないから、中に入りなよ」
頭からタオルを被せてやって彼の手を引くと、少し面食らったような表情をしたが
すんなりと従ってくれた。
中へ入るよう促して男を先に中に入れると、後に続いた不二が再び自動ドアを
ロックする。
歩きながら、不二が訊ねた。
「名前は?」
「乾………乾、貞治だ」
「そっか。どうしてあそこに居たんだい?」
何気ない不二の問いに、乾が其処で口籠る。
不思議に思って目を向ければ、ひょろりと背の高い乾が少し首を傾げて答える。
分からないんだ。
〜 Life 〜
【 I did not expect relief. 】
マザーからウィルスが撒かれて大半のアンドロイドが暴走を始めてから、1年。
定期的にウィルスの形を変えて流してくるマザーに少しでも対抗しようと、青学の者は
グループを2つに分けた。
1つは新たなアンドロイドを開発し、マザーを倒すための戦力を増やす目的で。
もう1つは、撒かれたウィルスを駆除するためのソフトを開発する目的で。
今、不二がいるチームはソフトを開発する側だ。
元々の青学のあった場所は、既に暴走したアンドロイド達に攻め込まれて壊滅している。
ソフトを開発するチームは主に人間だけで固められているので、敵に狙われたら終いだ。
なので、定期的に居場所を変えるようにしている。
今居るこの場所も、もう暫くもすれば次の場所へと移動しようと考えていたところだった。
住人の居なくなった小さな一軒家、そこが不二達の隠れ家だ。
「はい、あったまるよ」
「ああ………ありがとう」
談話室代わりにしているキッチンで湯気の上がるティーカップを差し出すと、乾はぺこりと
頭を下げてそれを受け取る。
少し口にして一息ついたところで、向かいに座った不二が問いかけた。
「さっき、分からないって言ってたけど……どういうこと?」
「どうもこうも………そのままの意味なんだけど」
「あそこに居た理由が分からないんだ?」
「ああ。というより……どうやって此処まで来たのかもよく分からない」
「記憶喪失?……そんなカンジはしないけどなァ…」
どうにも理解できないと首を傾げて不二が言うのに、同感だと乾も頷く。
本人が同意してどうするのさ、と不二が呟けば乾が少しだけ笑った。
「じゃあ、今までは何処に居たんだい?
外は……あまり人間が出歩ける状況じゃないよ」
「そうだな、沢山の人間の死体を見てきたし、暴走したアンドロイドも見た。
だが………不思議と俺は狙われなかった。
その事から推測するならば、俺はもしかしたら人間ではないのかもしれない」
「人間じゃない?
アンドロイドってこと?」
「そういう事になるな」
「でも、アンドロイドだったらマザーのウィルスにやられてしまうんじゃ……」
「考えられる要因は2つ。
ウィルス流出以降に作られたか、もしくはマザーに繋がっていないか。
少なくとも俺の意思でマザーに繋げた事はない。
そもそも、そんな回線が無いんだ」
「…………イレギュラーか」
乾の言葉で納得したと不二が頷いた。
自分の事が分からないのは、そもそもそんなデータが乾の中に残されていないからだ。
何処にも何にも登録されていないアンドロイド、それをイレギュラーと呼ぶ。
「じゃあ、誰が作ったかも分からないんだ」
「そうだな…」
「此処に来る前は何をしていたか、覚えある?」
「…………確か、」
思い出そうと視線を上に向けていた乾が、ああ、と小さく吐息を零した。
確か自分は、一人の女性の元に身を寄せていた。
もう随分昔の話である。
話し相手になって、守ってやってくれ。
そう、もう名前も顔も思い出せない製作者から言われたような気がする。
挨拶をする為に初めて口を開いた時、向かいに立っていた女性が酷く驚いた顔をして、
次には笑ってくれた事を思い出した。
ボディはともかく精神構造の構築にはどうやら不器用で不得手だったらしい製作者の
せいか、自分はとても口下手で表情を表しにくいようで、それでもそんな自分を
その女性はとても気に入ってくれていた。
後になって、その女性は製作者の恋人だった事を知った。
表情を上手く出せないことを気にしていた自分に、その女性は眼鏡をくれた。
これがあれば、感情が見えなくても不思議には思わないから。
そう言って優しく笑ってくれたのを覚えている。
守るといっても四六時中一緒に居るわけでは無く、仕事を持っていた女性を家で
待つ事も多かった。
一人暮らしをしていた女性は、それでもおかえりと言って迎える自分に、誰かが
家で待っててくれて迎えてくれるというのは嬉しい事だ、そう言ってくれた。
そんな日々が終わりを迎えたのは、3ヶ月後のこと。
事故だった。
タイヤがパンクして制御の利かなくなった車が突っ込んできたらしい。
けれど、自分にはそんな事知る由も無く、ただ、その日も彼女が戻ってくるのを
ずっと部屋で待っていた。
二度とその女性がドアを開けて入ってくる事が無いのだと知ったのは、事故があった
日から3日経った後のこと。
それから今までは、何をしていたかよく分からない。
ずっと部屋に居たような気もするし、外をうろついていたような気もする。
守り、話し相手になるように。
その目的を失くした自分には、何もする事がなかった。
周りからもほったらかしにされていた。
何処にでも好きなところに行っていい。
そう言われたのは、それからもう何年も経った後の事で、言ってくれたのは女性の
両親だった。
製作者の姿はあれから一度も見ていない。
外ではもうアンドロイドの暴走は始まっていて、女性の両親もこれから安全な場所へ
避難するのだと言っていた。
心の優しい女性の両親も同じように心優しく、今まで放置していた事に頭を下げ、
そしてもう自由なのだから、と自分の背中を押した。
アンドロイドの殆どは正気を失っていて、なのにどうして自分は正気を保てているのか、
それはそれは不思議そうな顔をしていたけれど、それでもやはりこの状況で
アンドロイドを手元に置いておくのは不安だったのだろう。
好きに生きなさい、そう言い残して女性の両親は去って行った。
けれど、目的を見失った自分に何処に行けと言うのだろうか。
戻りたくても、製作者の顔も名前も、作られた場所さえ分からない。
人間は心優しい。
けれど時に、酷く残酷だと思った。
ゆっくりと思い出しながら話す乾の言葉を、不二はただ黙って聞いていた。
それでも結局乾が此処に居た理由はどうしても思い出せないらしい。
仕方無いか、と頷いて不二はキッチンの入り口に立っていた男に目を向けた。
「そんな所に居ないで入ってきたらいいのにさ、手塚」
「ああ……」
立ち聞きをするつもりは無かったのだが、結果的にそうなってしまい、決まり悪そうに
視線を逸らしながら手塚もキッチンへと入ってくる。
「話、大体分かったかい?」
「そうだな」
「ああそうだ、乾。
こっちは手塚といって、僕達の……まぁ、リーダーみたいなものかな」
「みたいなものって何だ」
不二の紹介に些か不満が残るようで、手塚が眉間に皺を寄せて一瞥する。
だがすぐに視線を乾に戻すと、じっと窺うように見つめた。
「ええと、俺は乾貞治。よろしく」
「ああ……手塚国光だ」
乾が手を差し出してきたので、それをやんわりと握って手塚は名乗った。
彼が語った殆どの話は聞いていた。
不二の視線は「どうするの?」と訊いている。
渋々ため息を落とすと手塚は乾の横の椅子に腰かけて。
「ひとつ乾に訊ねたい」
「……なんだい?」
「お前は人間の事をどう思う?」
「…………。」
製作者も分からず、今の今まで放置されて生きるのは辛かっただろうと思う。
たった一人で、今此処で不二と手塚に出会うまで、彼は一人きりだった。
寂しいと思う事があったかどうかは分からないが、少なくとも人間に対して
良い印象を持っていないのは確かだ。
けれど、乾はかけていた眼鏡を外すとそれを懐かしそうに眺めて、笑う。
「人間は………とても優しいと思うよ。
とても優しくて………少し、悲しいな」
「………そうか。」
どうやら悪い印象だけでは無いらしい。
そして、今までの事も特に負の方向で考えているわけでもないようだ。
その事を確認すると、手塚は小さく頷いた。
「ならば、お前は此処に居ると良い」
「え…?」
「此処に居る以上は、青学に籍を置くと思ってもらいたい。
それでも良ければ……俺達と共に居ると良い。
もう一人……大石もじきに戻ってくる」
「あ、そういえば大石って何しに行ったんだい?」
「さぁ……よく分からんが、菊丸からの呼び出しだ」
不二の言葉に簡単に返すと、話は終わったとばかりに手塚は席を立つ。
その姿を見上げるように追いかけて、ちょっと、と乾が言った。
「なんだ?」
「えっと……その、いいのか?
こんな素性の分からないようなアンドロイドを傍に置いてさ」
「自分でそれを言うのか」
「……そう言われると返す言葉が無いな」
「大丈夫だ」
眼鏡をかけ直して呟く乾を見下ろして、手塚が小さく笑みを浮かべた。
「人間を優しいと言ってくれたお前だ、問題無い」
ぽんと乾の肩に一度手を置いてから、手塚はキッチンを出て行く。
その後ろ姿を見送ってから、乾が困惑したままで不二を見た。
彼も、穏やかに微笑んでいて。
「僕もキミを歓迎するよ」
そう、言ってくれたから。
やはり人間は優しいのだと、そう思ってしまうのだ。
< END >
原題:救済など望んだわけじゃない
青学編はここから。
最初はみんなアンドロイドにしようと思ったけど、
ここで人間視点での話が書けたら面白いかと思って
急遽設定変更と相成りました。(笑)
乾の設定だけちょっと複雑になってしまいましたが、
初っ端から色んな人との繋がりが明確になってるので
それも踏まえて楽しんでもらえたらな、と。