終幕:この、麗しい世界で。

 

 

 

手塚から、柳に連絡が入った。
『乾を見つけた、今から帰る』、と。
それにホッと安堵の息を吐いた反面、ふつふつと怒りが沸き上がってくるのもまた事実。
どこまで心配かければ気が済むんだ!!
そんな気持ちで1階のエントランスホールまで向かう。
すると丁度、連絡を受けた仲間達が戻ってきて傘を畳んでいるところだった。
「弦一郎、皆も帰って来たのか」
「見つかったんだってな。
 まぁ、事故や誘拐じゃなくて良かった」
「あーもう、傘さしててもビショ濡れだよー。
 こりゃもう一回風呂に入らないとねェ」
「ったく……面倒かけさせやがって」
「そうだそうだ、乾には今度死ぬホド奢らせてやるっ」
「あー、それええなぁ。俺もそうしよかな」
「岳人、奢らせるって具体的には何だ?」
「うーん……マックとか?ケンタとか?モスでもロッテリアでもー」
「ファーストフードばっかりじゃないの、向日」
「俺様はマックよりはモスだな」
「うわぁ、高級志向!!」
「フッ、当然ダロ?」
「でも俺はケンタくんでもええなー」
「………何だ、そりゃ」
「?何やの??」
「ケンタ君?」
「うん、ケンタくん。何や人の名前みたいやろ。
 言わへんか?」

「「言わねェ。」」

「えー?言うやんなぁ、真田?」
「……言うか?蓮二」
「少なくとも、俺は言わないな」
「えー、ホンマかいな」
「お前だけだっての、そんな呼び方すんの」
「えー……ほな関西だけなんやろか」

「「それ絶対ェ違う。」」

跡部と向日のツッコミは完璧だ。
安心感からか、そんな他愛も無い話で笑い合える。
濡れた服もそのままに、和気藹々と言葉を交し合って。
全員が、その場所から動こうとしなかった。

 

此処で待ってるから、早く帰っておいで。

 

 

 

 

 

 

外から近づいてくる2人分の足音に、全員が口を噤んだ。
そんな必要など無いのに、妙に緊張してしまう。
入り口のマットの上で少し滴を振り落としてから、手塚に背中を押されるようにして、
乾がゆっくりとエントランスに足を踏み入れた。
「………っ、」
何を言えば良いのか解らなくて、そこに居る皆の視線にいたたまれず、僅かに乾が
視線を落とす。
ただしんと静まり返った空間の中、雨の音だけがその主張を揺るがない。
と、不意にバサリと頭上にタオルが落ちてきて、驚いた乾が顔を上げた。
「ほらほら、ちゃんと拭かないと、風邪引いちゃうよ?」
いつ持ってきたのだろうか、千石がそう明るく言いながら手塚にもタオルを渡している。
ピンと張り詰めた空気がふと和らいで。
そこに居た全員をぐるりと見回すと、乾は一度、頭を下げた。
「皆………すまない、心配をかけてしまったな」
「全くだ。テメェ、もう二度とやらかすンじゃねェぞ」
不機嫌を隠さない声音で跡部が言うのを、忍足が「まぁまぁ」と宥める。
「お前、今度の休みの時は飯奢りだかんな!!」
先刻の会話を引っ張ってきて、向日がそう言えば、
「あ、乾はケンタくんて……」
「「それはもうイイっつーの」」
忍足が乾にまであの話題を持ちかけるのに、今度は跡部と向日がツッコミを入れる。
途端、賑やかになった周囲に、乾はゆるりと口の端を持ち上げた。

 

ああ、ここは暖かい陽だまりの、ようだ。

 

だから自分は逃げてはいけない。
真っ直ぐ前を見て、告げなければならない。
乾の正面には、今にも小言を言い出しそうな柳の姿。
逃げては、いけない。
「蓮二……」
「貞治、どれだけ心配したと、」
「蓮二……すまない」
柳の言葉を遮って、乾が一度、頭を下げた。
握った両の拳が震えている。
「貞治…?」

 

「もう、お前と一緒にダブルスはできない。
 皆と、テニスをする事はできない」

 

言葉を失ったのは、手塚以外の全員だった。
確かに誰も言わなかったが、彼の膝の事を考えると可能性はあった話だ。
口に出さなかったのは、言ってしまえばそれが現実のものになってしまうような、
そんな気がしたからで。
誰も、ここで離脱者が出るなんて思わなかった。
彼もまた足が回復し次第、復帰するものだと信じていた。
何より、乾自身がそれを強く望んでいたのに。
「じょ、冗談だろ、乾……?」
呆然としたまま向日がそう零したが、乾が首を横に振る事で否定する。
「馬鹿な事言ってンじゃねェよ。
 テメェ、ここまで這いずって登って来ておいて、今更落っこちる気か?」
そう言う跡部の口調ですら、どこか苦いものが混ざっている。
「足……そんなにヤバい?」
心配そうに千石が訊ねてくる。
「いや、それは元からだ」
「じゃあ……」
なんで今なのさ。
その呟きは、聞こえないフリをした。
「……後悔、しないのか?」
真田は至って真摯に、普段と変わらぬ様子で。
だが、乾には解っていた。
その言葉に僅かに宿る、懸念と憂慮。

 

皆、自分を見ている。
皆、苦しそうな表情で、背中を押してくれる。
頑張れ頑張れと、腕を引っ張ってくれる。

 

「………貞治」
柳が漸く、口を開いた。
視線を向ければ、窺うように自分を見つめてくる柳の目とぶつかる。
全てを探られてしまうような、そんな、目をして。
「蓮二……」
「部はどうするんだ。辞めるのか?」
「……いや、辞めない」
「貞治?」
「辞めないよ。此処で、この場所で、
 お前達の一番近くで、皆が上へ登っていくのを見てる」
「………っ、」
泣きそうに歪んだ表情に、なんだ、やっぱりこの男も年相応じゃないかと
乾はそんな風に思ってしまった。
そういう所は、昔と何も変わらないんだ。
「………辛いぞ」
「解ってる」
「俺達は、お前を置いて行くぞ?」
「解ってる」
「それでお前はきっと、後悔するんだ」
「解ってる………でも、」
真っ直ぐ、乾は柳を見た。
目を逸らす必要なんか、どこにも無い。

「俺は、ずっと見てる」

 

力一杯、抱き締められた。

 

「貞治…っ!!」
強く、強く。
乾が慰めるように腕を回すと、殺した嗚咽が背を震わせていた。
声を上げるわけじゃなくて、ただ、歯を食い縛るように、耐えて。
こんな風に泣く柳も、久々に見た気がする。
小学生の頃は試合で負ける度に泣いていたのに。
柳の言った事は全て真実だろう。
恐らくこれから、自分は辛い道を歩む。
皆がラケットを振るうすぐ傍で、それを絶った自分は見つめていかねばならないのだ。
きっと、羨望は消えないだろう。嫉妬も生まれるだろう。
だが、それを全て上手く隠して、それでも自分はその場所に立たねばならない。
「……もう、決めたんやな、乾」
「ああ」
静かに問い掛けてくる忍足の言葉に頷く。
すると忍足は「そうか」と一言ぽつりと漏らして、ただ切ない笑みを見せただけだった。

 

 

これは、逃げた己への罰だ。
優しい仲間の苦しむ姿を見たくなくて、背を向けた自分への、罰だ。
だからそれは甘んじて受けよう。
だから、どうか。
明日にはいつものように、晴れやかな朝を下さい。
そして自分に、導く腕を下さい。

 

優しい仲間達と、輝かしい未来を。

 

この、麗しい世界で、築いていけるように。

 

 

 

 

<終>

 

 

 

納得いこうがいくまいが、これにて終了!!(笑)

 

きっと千石くんはアビリティ『ムードメイカー』を取得してると思います。