空はどんよりと曇っている。
今にも泣き出しそうな空模様を見上げて、柳は眉を顰めた。
乾が病院に連行されたので、強制的に先刻の試合はお預けとなる。
今は千石と真田が、手塚と跡部が、それぞれシングルスで試合をしていた。
ちなみに審判は柳と向日。
忍足はベンチで一息入れている。
灰色の空を見上げながら、思考は幼馴染の方へと向いてしまう。
大丈夫なのだろうか。
彼は、まだ、走れるか。
こんなに早く奪われるなんて、余りにも酷だ。
そんな事をぼんやり考えていたら、審判台の脚をコツコツと叩く音。
柳が視線を下に向けると、呆れた表情で忍足が立っていた。
「なんや知らんけど、揉めたはるで?」
「……なに?」
言われてコートに目を向けると、ネットの傍で千石と真田が言い争っている。
「今のはどう見てもアウトでしょー!!」
「いいや、インだった」
「アウトだってば!!」
「インだ」
「…………」
「…………」
「……蓮二」
「……柳ぃ」
2人の視線が同時に自分に向けられて、柳がやれやれと肩を竦める。
「弦一郎、0.5mm見誤ったな。アウトだ」
「ほら言っただろー!?」
「………蓮二が言うなら」
仕方ない、と踵を返して真田は戻って行く。
それに千石も再びラケットを持ち、身構えた。
世話の焼ける奴らだと吐息を落とすと、忍足と目が合った。
じ、と自分を見ている。
「………どうした?」
「そない、不安にならんでも、ええよ」
大丈夫やって。
そう言って励ますようにもう一度審判台の脚を叩くと、忍足はベンチに戻っていた。
心配されたのだろうか。
そう思うと、自然と苦笑が漏れた。

 

 

 

 

それから程なくして、とうとう空が泣き出した。
「うわ…っ!!とうとう降ってきたー!!」
「恐らくこのまま本降りになるだろうな。
 これ以上は止めたほうが良い」
「そうだな」
空を見上げて嘆く向日に、柳がそう言って審判台を降りる。
そうこうしてる内にも雨はぽつぽつとその量を増してきた。
部活はそこで中止というお達しがきたので、早々に片付けて部室へと引き上げる。
軽くミーティングがあったが、そのまま部活はお開きとなった。
「うーーーわーーー、どうしよ……」
部室の扉を開けて、困ったように向日は空を仰ぐ。
ざあざあと、それはもう景気良いぐらいの雨が降り注いでいた。
無論困ったのは向日だけではない。
いわば、全員だ。
傘を持ってきていた者が、誰も居なかったので。
「濡れて帰るしかねェだろ。
 これは止まねェだろうしな」
そう言うと、跡部はさっさと鞄を担いで外に出る。
続けて、忍足も。
「あはは、雨に濡れんのって結構好きやねん。
 なんか、ええことない?」
「馬鹿かテメェは。
 風邪引いても知らねーからな」
「その時は移したるわ」
「ほー……できるモンならやってみな」
ぎゃあぎゃあ言いながら歩いていく2人を見ていると、躊躇っている事自体が
馬鹿馬鹿しく思えたのか、諦めて手塚も一歩、外に出た。
それに、皆続く。
足早に歩いていたそれは、雨足が強まるにつれ、少しずつ小走りになる。
雨はどんどん強くなっていった。
「ぎゃああ!!ちょっと降りスギだって!!」
「久し振りの雨だしな、仕方無いだろう。
 とりあえず、急いで帰るしか」
「あ、しまった、鞄に借りたマンガ入ってるんだよねー。
 濡れたらヤバいかなー……まあ、いっか」
「千石、それはまずいんじゃないか?」
ばしゃばしゃと、水を跳ね上げて。
角を曲がって、横断歩道を越えて、もう少し。
「あ、よく考えたら真田って帽子被ってんじゃんか!!ずるい!!
 その帽子貸してくれよー!」
「それはできんな」
「ずりー!!ケチケチすんなよー」
「誰がケチだ!!」
「諦めろ向日、どっちみちこの雨では帽子も余り役には立つまい」
「ちぇー」
ばしゃばしゃと、水溜りも果敢に突っ込んで。
緩やかな上り坂を、駆け上って。
「なあ跡部、寮まで競走せぇへんか?」
「へえ、俺様に勝てると思ってんのか」
「いーや、」
「意味ねェ事するんじゃねーよ」
「もうちょっと、スピード上げたいだけや」
「………上等、」
途端、スタートの言葉も出ないままで、跡部と忍足の速度が上がった。
あっという間に遠くなった背中を見つめ、呆れ返ってるのは千石だ。
「ひゃー、元気だねぇ、あの2人」
「なんなら俺と競走するか、千石」
「手塚と?いや、そりゃゴメンだ」
ははは、と笑って。
ただひたすら、寮に向かって一目散。
ぜえぜえと息を切らしている跡部と忍足の少し後に、全員が寮に踏み込んだ。
「だー!!結局びしょ濡れだー……」
ぶるぶると頭を振って向日が水を振り落とす。
辺りに撒き散らかされて迷惑極まりないそれを、跡部がその後頭部をはたく事で
止めさせた。
「このままじゃ風邪を引くな。
 とりあえず全員、風呂からか」
「…そのようだな」
そう言葉を交し合う真田と手塚の隣で、柳が玄関口から空を見上げて声を零した。
「傘………」
「どうした、蓮二?」
「貞治も、傘を持っていなかったな、と」
「大丈夫なんじゃねェの?
 病院までは車だし、終わりゃ連絡のひとつでも入るだろ」
「……そうだな」
跡部がそう柳に声をかけて、鞄を持ち直すと「お先」と声かけて向日を引き摺っていった。
盛大に千石がくしゃみをしたのに気が付くと、手塚も鍵を取り出して部屋へと上がっていく。
最後に、忍足と真田が。
「……蓮二、風邪を引くぞ」
「ああ、そうする。だが……もう少し。
 先に行ってくれ」
もう少し、この場所から続く、雨に濡れた小道を見ていたい。
見慣れた幼馴染の姿が、見えるかもしれないだろう?
言わんとしている事を察して、真田が自分達もと忍足の腕を引っ張った。
それを振りほどいて、忍足は柳の元へと近づく。
ひょいと顔を覗き込めば、それを予測していたのか驚いた様子を見せる事無く
柳が首を傾げた。
「どうした忍足、お前も早く……」

 

「不安てなぁ、伝染すんねんで?」

 

酷く驚いた表情で、柳が忍足を見つめる。
真っ直ぐで力強い双眸が、己を捕らえている。
「お、忍足……?」
「しっかりせぇ、参謀」
ばしんと景気良く背中を叩くと、忍足は踵を返して軽い足取りで階段を登る。
ふと、視線を向けると、真田と目が合った。
何か言いたそうな…だけど言えない。言わない。そんな顔で。
まるで途方に暮れた幼い子供のようで。
ふいに今言われた忍足の言葉を思い出した。
不安は、伝染する。
それに小さく苦笑を漏らすと、漸く柳は玄関口から離れて真田の腕を引っ張った。
「れ、蓮二?」
「このままでは風邪を引くのだろう?
 戻ろう、弦一郎」

 

一度だけ、玄関口を振り返った。
段差の向こうにある排水口は突然の大雨を吸い込みきれず、ゴポ、と嫌な音を立てて
溢れ返っていた。
それはどこか今の自分の気持ちに似ていた。

不安という名の大雨を、吸い込みきれなくて。

 

 

 

 

<続>

 

 

 

柳さんはまだ乾さんとテニスがしたいんです。

でもできないかもしれないんです。

そんな不安を書いてみました。