手離したものだってきっと数え切れないぐらいあったのだろうけれど、
それを補って余りあるぐらいのものは、手に入れることができた。
ずっと欲してやまなかったもの。
持っていた筈なのに、手離してしまっていた、もの。
<I ask for this happy continuation.>
今日は氷帝学園中等部の卒業式である。
跡部の代わりに新しい生徒会長に就任した後輩が送辞を述べ、
ごく当たり前のように跡部が答辞を述べて。
卒業式には大した感慨が湧かないまま、もうお決まりの卒業の歌と校歌を
続けて斉唱して、式は終わった。
最後のHRで卒業証書を貰い、実のところ今は逃げるようにして校舎の屋上に
潜んでいる。
テニス部レギュラーの連中が集まって、部室で追い出し会をやるとは聞いていたのだが、
教師との別れを惜しむ者や、意中の人間に最後のアタックをかける者、
そして、ただそのざわめきをBGMに大いに騒ぎ出す者などの中に、混ざる気も
潜り抜ける気も起きなかったからだ。
校舎の最上階から階段を下って行く人間は大勢居たが、逆に上る人間など居ないだろうと
踏んでの行動だったのだが、それは大方予想通りだった。
屋上へ続く扉を開け、寒さが色濃く残る風に身を震わせながら忍足は一歩を踏み出す。
恐らく、この場所へ来るのは今日が最後になる筈だ。
この敷地の向かいにある高等部へ進むのであればまた話は別かもしれないが、
忍足は4月から県外の高校へ通うことになっている。
2週間ほど前に、附属の寮へ荷物も運び終えていた。
だから、本当に今日で最後なのだ。
卒業証書の入った筒を握り締め、背中をフェンスに預けるようなカタチで
ただ空を仰ぐ。
「しっかし……意外やったなぁ…」
恐らく今までテニス部で一緒にやってきた仲間達は皆このまま高等部へ進むだろうと
思っていたのに、何故か自分と同じ高校に2人の仲間がついてきたのだ。
一人は共にダブルスも組んでいた、向日岳人。
彼は最初から同じ高校を受けると聞いていたので良かったのだが、もう1人が問題だ。
帝王、跡部景吾なのだ。
まさかこの氷帝という世界の帝王をやめてしまうとは思ってもみなくて、聞いた時は
本気で耳を疑ったものだ。
初等部からずっとこの世界に居て、且つたくさんのものを培ってきただろう跡部が、
その全てを捨ててきたのだ。
新しい世界では、過去の栄光も築き上げてきた帝王としての存在感も全てが無意味となる。
彼は1から全てを始めると言うのだ。
「俺には真似なんてでけへんなぁ…」
1から始める意志はあったとしても、今ある全てを捨てる勇気は無い。
さすがは跡部、と言うべきなのだろうか。
そんな事を考えながら苦笑を浮かべていると、背後から扉が開閉する音が聞こえてきた。
続けて、聞こえた声。
「こんな所に居たのかよ。捜させんなよな」
もう聞き慣れてしまった声。
くるりと振り返れば、気の強そうな(実際強いのだが)蒼い瞳が真っ先に視界に入る。
「跡部やん。どないしたん?」
「ったく……HRが終わったら部室に集合つっといただろうが。
相変わらず協調性のカケラもねぇな」
「痛いコト言うなや。行かへんなんて言うてへんやん」
「あァ?んなコト言わせるとでも思ってんのかよ」
ズカズカと急ぎ足で歩み寄ってきた跡部が腕を掴んできたので、苦笑を見せつつそれを
やんわりと外させた。
「行くて言うてるやろ?
人込み嫌いやから、少ななるまで時間潰しとっただけや」
「皆もう待ってんだぜ?」
「まぁ、もうちょっとぐらいええやん?
せっかくやし跡部も付き合うてぇや」
「……チッ」
忍足の言葉に小さく舌打ちをしたが拒否するつもりは無いようで、
フェンスに凭れたままで座り込んだ忍足の隣に跡部も腰を下ろした。
「……あれ?跡部無傷なん?」
「は?」
忍足がジロジロと自分を見ていたかと思うと唐突に言い出した言葉に、
跡部が眉を顰めて視線を投げる。
意味が解っていないのに気付いてくすりと笑みを見せると、きっちりと結ばれた
ネクタイが揺れる胸元をちょいと指で突付いた。
「ボタン。絶対女子の間で争奪戦が起こると思うてたんやけどなぁ」
「ハッ、んな面倒な事させてたまるかよ。流血沙汰になるぜ?」
「拒否したん?」
「逃げた」
「うわ。跡部ともあろうモンが敵前逃亡かいな」
「宍戸なんか身包み剥がされてたぜ?」
「……かわいそうに」
「逃げ遅れたアイツが悪い」
「厳しいなぁ……ほんま」
言葉を交わして視線を合わせると不思議と笑みが込み上げてきて、
2人して気の済むまで笑い合った。
そんな、跡部と忍足の関係はとても微妙な位置にある。
友情、というのとは少し違う。
例えば跡部や忍足が向日に対して持つ感情のように、何もかもを曝け出して
付き合っているというわけではない。
かといって友情が無いわけでもない。
ただ、向日に対するモノと、根本的に何かが違うのだ。
それが一体何なのかまでは、お互い気付けていないのだけれど。
「まぁ、なんて言うんかな」
はは、とまだ笑いの残る声で忍足が続ける。
「まさか跡部がこの氷帝を離れるっていうのんは、ちょっと想像にも
してへんかったんやけど、」
「……なんでだよ」
「やって、この学校の帝王やってんで?お前かて自覚ぐらいあったやろ。
こんな居心地のええトコ、捨てるなんて思わへんかったわ」
「別に、今の俺の立場は、俺がそうしようと思ってなったモンじゃねぇ。
そんな事ぐらいはわかってんだよ」
「…跡部?」
ふっと口元を笑みの形にして吐息を零す跡部は、どこか思惑が図れない。
ただ理解できる事は、忍足自身が跡部景吾という人間をどこか勘違いしている
という事だった。
「帝王なんて単語は、結果論でしかねぇ。
俺がやった事に対して、後からついてきたオプションだ。
だから…俺が必要ねぇと思った時点でそれは俺にとってこれっぽっちも価値の
無いモンになってんだよ」
それに、そんなものより大事なものを、見つけてしまったから。
「全部……手離しても惜しくないってコトなん?」
だから忍足のこの言葉に、ダメだ全然解ってねぇと苦い笑みさえ溢れてくる。
彼には理解できないのだろうか?いや、きっとできる筈だ。
「……ここを離れる事によって手離してしまうものなんか、少しも惜しくねぇ」
だって、俺達はこんなにも。
気がつけば手が伸びていて、ぐいと忍足の肩を引き寄せていた。
抱き締める、というわけではないけれど、もっと近くにと思ってしまったための行動だ。
どうやって伝えれば良いだろうか。
聡い彼の事だ、ほんの少しだけできっと伝わってくれるだろうに。
「ちょ…跡部、何?」
「てめぇは、何もわかっちゃいねぇな」
「……え?」
「俺が、本当に全てを手離すとでも思ってんのか?」
引き寄せられたことで随分近くなった距離に驚きながらも、横目で跡部を見遣り
忍足は思考を巡らせる。
「お前は、どうだよ?」
「俺…?」
「俺と岳人がお前と同じ学校に行くって知った時、どう思った?」
「………お前は何も言わんかったやろが」
「ああ、そうだったな」
「せやから……ほんまにビビったんやって」
「それで?」
「それで………あぁ、」
確かにあの時、自分は間違いなく喜びを感じていた。
大事に大事にしているものを置いて、1から作り上げていくんだと決めていたけれど。
結果的にその決意が全て覆されるような展開があったとしても、そこに表れた感情は
失意などではなく、歓喜だった。
どこかでまだ恐れていたのだろう、大事にしていたその『何か』を手離すことを。
だから手離さなくて済んだという事実に、ただ喜びだけを感じていたのだ。
「……俺は、一番大事なものが手元に残って、ほんまに良かったなぁって…」
「やっぱり…」
「跡部?」
「俺と、おんなじだ」
「……どういう…意味なん?」
「だから、」
全てを手離す気なんて無い。
だから不要なものだけを切り捨てて、必要なものだけを手元に残す。
そういう選択をしたら、こんな結果になってしまっただけなのだ。
そうだ、全てじゃない。
本当に大事なものだけは。
「俺も、大事なモンは全部手の内に残ってんだよ。
だから他の何を失っても、後悔なんてしやしねぇ」
「……。」
「忍足、てめぇの大事なモンは、何だ?」
「………言わすんか、ソレ」
物凄いしかめっ面を見せてくるあたり、恥ずかしいとか思っているのだろう。
けれど、たった一言欲しい言葉をくれるならば。
「言ってみろよ。イイ事あるぜ?」
「何やねんイイ事って……」
今までずっとそうしてきたように、これからも。
「…………お前と、岳人や」
染み入るように響く言葉に、跡部の瞳が満足そうに細められた。
「ほんま恥ずかしいねんから、言わすなやボケ」
逆に忍足の表情は気まずいとでも言いたげに歪んでいる。
そんな彼に、贈り物をしよう。
ささやかな礼と、ちっぽけな誓いだけれど。
「やるよ、コレ」
ぶつりと音を立てて跡部は己が着ているカッターシャツの上から2番目のボタンを
迷う事無く引き千切ると、忍足の掌にポンと乗せた。
「……ボタン?」
「他意はねぇよ。てめぇが恥ずかしいのを我慢して頑張ったからな、
俺も少し返してやろうと思っただけだ」
「?」
たった一言、欲しい言葉だけをくれた彼に約束しよう。
今までずっとそうしてきたように、これからも。
「これからも傍に居る。そしてお前を助けてやる。
……コイツに、誓ってやるよ」
ちょいと忍足の掌に乗っているボタンを突付いて言うと、驚いた忍足の目が
自分を捉えてきた。
ボッと音がするぐらいの速度で、その頬が朱に染まって。
「…………恥ずかしい奴っちゃな、ほんま」
視線をずらしてそう呟くから、鼻で笑ってやった。
「バーカ、お互い様だっつーんだよ」
その言葉に忍足が、嬉しそうに笑みを見せた。
と、そこへ。
「あーーー!!なんか跡部とおっしーがやらしい事してるーー!!」
「くそくそ跡部!!侑士に手ェ出すんじゃねぇーー!!」
「あらら、肩なんか抱いちゃって、やるねー」
お邪魔虫が3匹。
ジローと向日と滝である。
あまりにも自分達が現れないものだから、捜しに来たのだろう。
「このやろ跡部!!侑士から離れやがれーー!!」
「うぉわッ!!てめ、バカ岳人、重いんだよ!!」
「あッ、なんか楽しそうだC〜!!俺も俺もー!!」
「あ、じゃあ俺も行ってみようかな」
「アホかお前らそんないっぺんに突っ込んでくんなって……ぉわああ!!」
跡部に思い切り体当たりをかます向日に倣って、ジローと滝も突撃をかけてくる。
そんな大騒ぎを聞きつけた宍戸やら樺地やら、鳳も日吉も、結局は全員が
屋上に集まってしまったのだけれど、そこは置いておくとして。
一気に賑やかになった屋上には、ただ笑い声だけが響いていた。
「………では、それなりに仲良くやっていたんじゃないか」
「まぁ、な。それなりになぁ」
思い出話に花を咲かせながら、校舎の屋上であの時と同じ青空を見上げる。
隣に座っているのは、この高校で新しく仲間になった手塚国光と乾貞治だ。
他にも新しく出会うというよりは再会に近いような形で数人の仲間が居るが、
今はこの場所に同席していない。
3人の近くでは、跡部と向日が手足を投げ出すようにして横になっている。
どうやら眠りを満喫しているらしい2人に目を向けて、忍足はくすりと
小さく笑みを浮かべた。
「今でもそれなりに、なんやけどな?」
ここでの仲間達も、見た目は気難しそうだけれど話せば気の良い奴らばっかりで、
結局手離したものなんて何ひとつないんだ、と思う事ができた。
何より決定的だったのは、卒業式の日の跡部の言葉だったけれど。
あの時の事だけは忘れられないし、きっとこれからも絶対に忘れないだろう。
「……さて、と。
ほな俺ちょお購買に用あるから、行ってくるわな」
未だ辺りに散らばった菓子やジュースを摘んでいる2人にそう言って、
忍足は校内へと続くドアへ足を向けた。
その背に、ふと思いついたように乾が声をかけた。
「跡部から貰ったというボタンは、まだ持っているのか?」
「ん?」
きょとんとした顔で振り返った忍足の表情は、次の時には照れ臭そうな笑みに
変わっていて。
「ああ、無くさへんようにな、ちゃんとココにあんで?」
忍足が指で指したのは、自分が着ているカッターシャツの、上から2番目。
それじゃあ、と軽く手を振って出て行く忍足の姿を見送りながら、手塚が小さく
吐息を零した。
「しかし、あそこまでしていて、あくまでも両思いでない…と?」
「言い張ってるようだな、アイツらは」
「…恥ずかしい奴らだな」
「全くだ。見ててムカつくな」
「同感だ」
昼休み終了の予鈴が鳴るまで動くつもりは無いのだろう2人は、跡部と向日が
起きるのを待ちながらただ、口々にそう呟くのだった。
実は目を閉じながら聞いていた跡部がその辺りで隠せなかった笑みを零してしまうのだが、
それはまた別の話である。
<END>
六原禄呂さまに捧げます。
設定としては、霊感少年パラレルと高校生パラレルのちょうど繋ぎ目です。
卒業式は思い出話で、高校1年生の初夏頃の話でしょうか。
ラストの眼鏡ーズ出現に目を瞑っていただければ、この話は単品でも読めるのでは
ないかな、なんて思うのですが。
一応誰でも読めるものを目指して書いたつもり…です。(苦笑)
このお話は、いつもお世話になっている六原さまのサイト開設のお祝いに
何か小噺を書かせていただこう!という事で書いたものです。
一応ご本人様にリクエストをお聞きしたところ、
「ちょっといつもより甘めな二人とそれを見守るみんな」
というお言葉を頂きましたので、それとなく狙ってみました。
全然甘くねぇし…!!しかも皆見守ってねぇし……!!(ダメすぎ)
うわああ、せっかくリク頂いたのに、ちょっとも沿ってなくてごめんなさい!
仲間は氷帝メンバーでも高校生パラレルメンバーでもどちらでもという事でしたので、
両方出してみましたです。
…なんだか、ものすごく迷惑極まりないモノなのかもしれませんけれども…。(遠い目)
六原さま、サイト開設おめでとうございますvv の気持ちを篭めて。