薬草を摩り下ろしていた手を止めて、林春はほっと一息をついた。 日もやや西に傾いてきた頃だ、そろそろ休憩にしようと彼女は土間に立って 茶を淹れる為に湯を沸かし、居間にある卓袱台の傍に腰を下ろした。 茶を一口啜って、ふと思い出す。 そろそろ楓の元に薬を届けなければならないだろうか。 初めて会ったあの時から何度か彼女の元は訪れたし、林秋を連れて行った事も あったが、それらは全て顔を出した程度の事だ。 林秋に至っては遊びに行って来たと思っているだろう。 思い出しながら、連鎖的に彼女に言われていた事も脳裏に蘇ってきた。 「畑を荒らす獣の駆除や深い山中の一角にある薬草の採取から、 人様にはちょっと言えないような事まで、何でもだ」 確か彼女はそのように言っていた。 未だに自分はそれに対して何も答えてはいない。 そして彼女らもあれ以降は何も言わなかったので、林春としてはこのまま 流しても良いかもしれないと、そんな風に思い始めてきていた。 もちろん仕事上の絡みなので放置は良くないのだろうが、本心としては楓達とは ただの友人として付き合っていきたい、そんな風に思うのだ。 「林春ちゃん、いるかい!?」 表に続く扉が乱暴に開けられる音と同時に聞こえてきた声、近所に住む男性だと 気づいて林春は立ち上がった。 妙に焦った急ぎ足の声音は、きっと何かがあった証拠だ。 「どうしましたか?」 「怪我人だ、診てやってくれるかい?」 「……ど、どうしたんですか、これ!?」 大急ぎで玄関に隣接した診療用の部屋まで走ると、入り口で足を止めて林春は 声を上げた。 男が肩に腕を回して支えるように一人、その足元にもう一人が座り込んでいて、 男の向こうにまだ数人がお互いを支え合うようにして立っていた。 見ればどれもこれも棒で殴られたような痣や、何か刃物で斬り付けられたような 傷があり、酷い者は傷口を押さえていた布から血が滲みだしている。 「ひどい……誰が、こんな事を…!?」 「賊だよ、林春ちゃんも聞いた事があるだろう?」 「え、ええ……でも、山2つ向こうの村の話って……」 「そいつらが此処まで出て来たんだよ!!」 「……まさか…」 一人一人をさっと診て回って、縫合が必要な2人を診察台へと促しながら、 林春が男の言葉に眉根を寄せる。 「あっという間だったさ……俺のうちと、周りを数軒襲って金目の物を 全部奪って行きやがった。 抵抗すりゃこの通りさ」 「ありゃあ、本当にとんでもねぇ奴らだ」 「とにかく手当てしましょう」 口々に言う男達の言葉を遮って、林春は薬をいくつか取り出しながら言った。 話は手当ての後でもできる。 だが、その中の一人がそういえば、と思い出したように部屋の中を見回した。 「林秋の姿が見えんな。外かい?」 「ええ、友達と遊んでくるって……」 「……気をつけなよ」 「え?」 「賊共は、強盗まがいの事から女子供を攫って余所で売り払うという 人身売買のような事までやってるって話だ。 あんまり一人で外に出さん方が良い」 「………人身売買…?」 「なにかあったらすぐに言いなさい。良いね?」 「はい……」 親身になって話してくれる男性はここから畑2つを間に挟んだところにある 農家の者で、父親と親しく両親が死んでから何かと自分達に気を配って くれている者だ。 見れば彼もところどころに傷を負っており、力ずくで奪おうとした顔も知らない 賊に対して、林春は言いようのない怒りを感じていた。 手当てを施した後、彼らは賊の出現を役人に連絡してくると言い、林春の元を 立ち去った。 幸い、常に様子を見ていなければならないほどの重傷を負った者はいない。 それだけが救いだと思いながら林春は彼らが帰って行くのを見送った。 また家の中で一人になって、林春がふと言われた言葉を思い出した。 確か「女子供を攫って売り払う」と言っていただろうか。 思い出してみると、林秋のことがとても気にかかる。 昼過ぎに遊びに行って来ると元気よく飛び出して行ったきり、 まだ弟は帰ってこない。 時刻はそろそろ日も沈もうという夕刻だ、いつもならそろそろ戻って来ても 良い頃である。 (………まさか、ね?) 言いようのない不安を振り払うように強く首を左右に振って、林春は着物の裾を ぎゅっと握り締めた。 だが、それからどれだけ待っても、弟が戻ってくる事は無かった。 <続> |