「それで……って?」
「ん?もしかして……君は何も知らないのか?」
「何もって……ごめんなさい、言ってる意味が
 良く分からないんですけど」
「八代の大将から、私達の事を聞いたことは?」
「それが……一度も無いんです。
 だから私、あなた方の事を名前も顔も何も知らなかったの」
「ああ、それでか」
俯いて遠慮がちにそう言う林春に、楓は僅かに苦笑を浮かべた。
八代の大将とは旧知の仲ではあるが、そういえば彼は医者として
腕は良いが大概に大雑把なところがあったのを思い出す。
「それじゃ、きちんと自己紹介から始めた方が良さそうだな。
 私達も君の事はよく知らない。まずは名前を伺おうか?」
「あ、はい。私は林春と申します。
 2年前に両親の後を継いで、医療に携わってます」
「そういえば、八代の大将には子供が2人いると伺っていた」
「6つ下に弟で林秋がいます」
「彼も同じように?」
「……いいえ、どうもあれは好奇心旺盛で……言い方を変えれば
 注意力が散漫なんですよ。医者には向きません」
「あはは、そうか……今度、連れて来てくれないか?」
「ええ、私達は父からあなた達の事を何も聞かされてなくて…
 最初は何か話せない理由があるのかなって思ってたんですけど、
 どうやらそうでもないみたいですね。
 帰ったら林秋に話をしてあげようと思います」
笑って楓が言うのに林春も笑顔で返す。
最初はどんな怖いところなんだろうと思いもしたけれど、話してみれば
とても取っ付きやすくて何でも話せる…まるで昔からの友人のような
気さえしていた。
打った頭は痛むけれど他は随分と調子を取り戻したので手拭いを返すと、
楓は林春の手を引いて寝かされていた和室の隣室へと案内した。
どうやらそこは居間のようで、赤茶けた色の卓袱台の周りに
いくつかの座布団が並んでいる。
適当に座ってくれと促されたので林春がそれに従うと、障子を開けて
楓は奥に向かって大声を張り上げた。
「白狼、客人に茶を頼む!!」
「はぁぁい」
廊下の奥か少し間延びした返事があって、林春は思わずくすりと笑みを零した。
きょろきょろと物珍しげに辺りを見回してみる。
だが、あるものは卓袱台と座布団、それから部屋の隅の方に布が被された
姿見が置いてあるだけで、考えてみれば自分の家とあまり変わらないように
見える。
「お待ちどうさま〜」
すらりと障子が開かれて、急須と湯呑を乗せた盆を手に入ってきたのは
最初に応対に出てきてくれた少年だ。
彼はてきぱきと湯呑を置いて急須からお茶を注ぐと、へらりと気の抜けるような
笑顔を見せて林春に湯呑を手渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。ええと……」
「あ、僕は白狼っていいます」
「しろうくん、ね。よろしく」
湯呑を受け取りながらにっこりと笑みを見せて林春が答えると、少し照れたように
えへへ、と白狼は笑う。
彼がいるだけで空気がとても和やかになったような気がして、林春も
肩から力が抜けた。
「ねぇ楓、この人……」
「ああ、八代の大将の娘さんで、林春というんだ。
 2年前から大将の後を継いでいるらしい」
「へぇ……薬箱の中、ちょっと危なかったから助かったよ」
「お前らが後から後から怪我してくるのが悪いんだ」
「そうだけど…主に使ってるのは汰助だよ!」
「変わらん」
取りつく島もない楓の返答に、白狼は湯呑を手に抱えて頬を膨らませた。
まるで自分と弟の姿のように見えて、思わず林春の口から笑いが
声になって零れる。
「なんで笑うのさぁぁ」
「うふふ、ごめんなさい。
 白狼くんを見てると、なんかうちの弟思い出しちゃって」
「そういえば、林春はどの程度の患者を診ているんだ?」
「う〜ん……大体は。
 特に外傷の方は粗方診れるようになってきたんだけど…、
 でもやっぱり、重い病気になると手がつけられなかったりして…。
 こんな時、父さんや母さんなら治せるんだろうなって思うと、
 ちょっと複雑かな」
「何事にしても、経験を積むしかないだろう。
 2年やそこらである程度診れるようになったのなら大したものだ。
 きっと林春は名医になる」
「やぁだ、楓さん。おだてたって何も出ないから」
手を胸の前でパタパタと振りながら、あははと林春は声を上げた。
今はまだ父や母には遠く及ばないのだが、いつか追いついて、そして
超えてみせたい。
そのささやかな夢を言い当てられたような気がして恥ずかしくなったのだ。
「色んな症例を見て、色んな治療方法を試してみて、少しずつ前に進むわ」
「そうだな、それがいい」
卓袱台の上に頬杖をついて、楓が目を細めた。
いつだって、向上心のある人間は楓にとって好感が持てる。
うんうんと頷いていると、ふいに頭上に影が被さった。



「ほう、どんな症例がお望みだ?
 打撲脱臼捻挫に骨折、切り傷刺し傷も包帯を巻いて済むものから
 縫合が必要なものまで何でもご用意してみせよう」



そう言って音もなく姿を現したのは、20代前半ぐらいの男性だ。
薄い金色の細い髪を背中まで伸ばした、切れ長の目をした優男。
突然現れた男に声も出せず林春が驚いていると、やれやれといった風に
肩を竦めて楓が視線を上へ向けた。
「茜寿、外傷しかないじゃないか」
「ふむ……しかし、私の手では外傷しか作れん」
「残念だが、外傷はある程度治療できるようだぞ」
「…………ちっ」
酷く残念そうな舌打ちを零すと、茜寿と呼ばれた男は片腕にぶら下げていたものを
ポイとその場に放り投げる。
それは先程林春と激突した少年だった。
「いてッ!放り投げんなよ!!」
「五月蠅い。その顔を二度と鏡の見れない風体にしてやろうか」
「おーし!受けて立ってやろうじゃねーか!!
 やれるモンならやってみやがれ!!」
「後悔するなよ、糞餓鬼が」
畳の上から体を起こして少年が茜寿と対峙する。
だが、2人が取っ組み合いの喧嘩を始めるその前に、勢い良く卓袱台に
叩きつけられた楓の拳が2人の争いを一発で止めた。
「お前達………いい加減にしろ」
「け、けどよぅ、楓、」
「口を噤んで大人しくするか、黙って私に殺されるか、
 好きな方を選ばせてやる」
「………すいません」
黒髪の少年がしょぼんとした顔でその場に正座して座り込むと、
それ以上苛めようという気が無いのかそれとも楓が怖いのか、
茜寿も重ねて何か言うことは無かった。
林春がぽかんとした表情でそれを眺めていると、騒がしくしてすまん、と
楓が一言頭を下げる。
「コイツらはいつも喧嘩ばかりでな。話の腰を折って済まなかった。
 ついでだから紹介しよう。
 この、何を考えているのか分からないようなのが茜寿で、
 そこのイキの良いのが汰助。
 貰った薬の大半の消費者はこの2人だ」
「大人げねーんだよ、茜寿のヤツ。
 すーぐにブン殴るんだからよ」
「お前が餓鬼なだけだろう。
 私もお前が余計な事をしなければ、いちいち殴ったりもせん」
「なんだとうッ!?」
「言った傍からやめんか!!」
いつの間にか汰助と茜寿の後ろに回り込んだ楓が、各々左右の側頭部を掴んで
勢い良く叩きつける。
ガツン、と景気の良い音がして2人はそのまま沈黙した。
「ええと……せんじゅさん、に、たすけくん……ね?」
次々に初対面の人が増えて、林春があわあわとしながら名前を頭の中に叩き込む。
幸いそれぞれが特徴のある人物であったから、間違えたりすることは無さそうだ。
「本当はもう1人いるが……今ちょっと出ていてな。
 またソイツは別の機会に。
 それで、だ」
「はい?」
「君の望みはなんだ」
「え…っ」
目を丸くして林春が声を上げる。
すると楓はしまったな、といった表情を作って何から説明したものかと
腕組みをして唸りを上げた。
どうやら林春は本当に何一つ聞かされていないらしい。
「八代の大将は、定期的に我々に薬を届けてくれたり、
 時には治療をしてくれたりもした。
 しかし、それらについて費用を請求された事はない」
「……そうだったんですか?」
「ああ、その代わり、だ。
 我々は大将の言う事を必ずひとつ、聞くことにしている。
 まぁ……物々交換といったところだと思ってくれれば良い。
 畑を荒らす獣の駆除や深い山中の一角にある薬草の採取から、
 人様にはちょっと言えないような事まで、何でもだ」
「………人様にはちょっと言えないようなこと?」
「話せば長くなるので、その辺りのことはまた今度に話すとしよう。
 つまり、君がこうして薬を届けてくれた時点で、君は我々に
 何かひとつ頼みごとをする権利を得た、ということだ」
楓の言葉に、林春が口を噤んで僅かに俯いた。
頼みごとと言われても事情を知らなかった以上すぐに「じゃあこれを
お願い」なんて言える筈もない。
どうやら困った表情をしていたのだろう、じっと見つめていた楓は
やがて小さく苦笑を浮かべて口を開いた。
「林春は何も知らなかったんだ、今あれこれ言っても仕方がない。
 それでは今回のコレはツケにしておいてくれるか?」
「え?」
「別に今じゃなくて良い。思いついたら言ってくれればいい。
 子供のおつかいから法に触れそうな事まで、何だってやってみせよう」
「………そんな…」
「ただし、」
林春の目の前で、楓は唇を吊り上げるようにして笑った。




「その頼み自体を我々が『悪』だと判断しない限りは、だ」






















日が傾き始めた頃、林春は入って来た時に潜った鳥居をもう一度潜った。
これから真っ直ぐに家路に着くのだ。
きっとそろそろ林秋も帰って来ていて自分が戻ってくるのを待っている
ことだろう。
あれからすぐに話題は違う事に逸れ、汰助と茜寿の喧嘩の原因だとか、
そういったくだらない方向に流れていった。
まるで先程までの話が全部夢幻の類であったかのようだ。
けれど、どこか最後まで非日常の気配が残っていた。
自分達と同じような年頃の同じような風体をした人物達だったのに、決定的に
自分達とは何かが違うと、そんな風に思うのだ。
だが、決して悪い人ではなかった、と林春は思う。
こうなれば時折訪れて、少しずつ彼女らの事を理解してみたいと考えてしまう
程には。
「ただいま」
「あ、おかえり姉ちゃん!」
自宅の玄関を開きながら中に向かって声をかけると、やはり戻っていた林秋が
出迎えてくれた。
どちらかといえば遠慮が前に出て一歩後ろへ下がってしまう自分とは逆に、
林秋はいつでも活発で表情が豊かだ。
今も、初めて自分が行って来た場所の事を聞きたくてウズウズしているのが
見て取れる。
「姉ちゃん、どうだった?
 なんか面白いことあった!?」
「面白いことって……何しに行って来たと思ってるのよ」
呆れた目で弟を見遣りながら、林春はそういえば、と先程の神社でのことを
思い出す。
あの時は白狼を見て林秋に似ているな、と思ってしまったけれど。


(どっちかっていえば……汰助くんに似てるのかも)


ふふ、と思い出し笑いをしていると、気にしたのか林秋が服の袖を掴んで
引っ張ってきた。
「やっぱ何か面白いことあったんだ!教えてよ!!」
「分かった。分かったから離して、ね?」
「でさ、でさ、だからどうだったのさ!?」
「そうねぇ…」




「お友達が、たくさん出来たわ」




まるで血沸き肉踊る冒険譚でも期待するかのような眼差しで見てくる弟の頭を
優しく撫でてやりながら、そう言って林春は微笑んだのだった。












<続>