林春がその神社の鳥居を潜ったのは、実は今回が初めてだ。 村の端にひっそりと佇んでいるお社に近付く者は、同じ村人の中では あまり居なかった。 参拝しに行くならもう少し村の中心近くに違う神社がある。 わざわざ遠くの神社に向かう者はあまりいない。 そして今回どうして彼女がその神社に訪れたのかというと、そこの神主が 『客』であったからだ。 林春と、そして6つ年下の弟の両親は村に住む唯一の医者だった。 だった、と過去形で書くことになったのは、2年前に揃って他界してしまった からである。 その両親の後を継いで、医師として立ち上がったのがこの林春だった。 今年16になる少女は、幼い頃から両親の仕事を目の前で見続け、そして自身も 暇があれば医学書を読み耽るような子だったので、両親の後を継ごうと考えたのは 自然の流れだ。 その『客』であるこの神社の神主は、両親とはもう長い付き合いがあったようだ。 此処へはいつも父親が一人で向かっていたので、その神主の姿もどのような 場所かも林春は知らない。 ついて行ってみたいと思うことはあったが、その度に父親は曖昧な表情を見せて 笑うだけで、連れて行ってくれる事が無ければ話をしてくれる事すら一度も 無かったのである。 そんな状態であったのに何故林春が此処の神主が『客』であると知ったのか、 それは単純に家の中にあった帳簿を見ての弟の言葉からだった。 医師として誰かを見る知識のない弟の林秋は、それでも姉の手伝いがしたいと 医療記録を残したり帳簿をつけたりと、主に事務的な事で助けていた。 とはいえ、まだ10になるかならないかの子供なので、どちらかといえば 今は外に出て遊びたい盛りのようである。 今日も今日とて初めて行く場所だというのに、林秋はあっさり手を振ると 近所に住む子供達と遊びに行ってしまった。 こういう所は薄情な弟だと思う。 「………此処かぁ…」 鳥居を潜って暫く石畳を真っ直ぐ歩くと、参拝用の境内が見える。 林春はそれを確認すると裏側へ回るため境内に沿ってぐるりと辿り始めた。 自分以外に誰もいない、静かな空間をおっかなびっくりといった風情で歩くと、 どうやら中に入れるのだろう入り口が目に入る。 ひょこりと中を覗いてみるが、誰かがいるという様子は伺えない。 「ご…ごめん下さぁい」 玄関口に立って、恐る恐る中へと声をかける。 灯りのない薄暗い廊下の奥から一体何が出てくるのだろうか。 どきどきと胸を鳴らしながら待ち続けること暫く。 聞こえてきたのはトタトタと走る足取りの軽い音だった。 「はぁい、どちらさま………ですか?」 やって来たのは自分より2つ3つ年下のように見える少年だった。 神社の子らしい格好をしているが、薄い茶色の髪と碧の目が、明らかに 自分達と違っていた。 (もしかして……外の国の子なのかしら) 数は非常に少ないが、各地に海を越えた向こうの国からやって来た人達が いるという話は林春も耳にした事があるので知っていたし、実際に見た事もある。 だが、どうもそれらとも雰囲気が違う。 どうしてそんな風に思うのか、それは彼女自身も分からなかった。 「……あの?」 「え、あ、ご、ごめんなさい! えっと……父の代わりにお薬を届けに来たんですけど…、 神主さまはいらっしゃる?」 「ああ!」 ぼんやりとしていると訝しげに声をかけられたので、慌てて林春はそう答えた。 すると少年はパンと手を打って合点が行ったと何度も頷く。 「そっかそっかぁ、暫く来なかったから忘れちゃってた。 とりあえず中へどうぞ、楓を呼んでくるから」 「え…ええ、」 楓という名前にも全く覚えがないが、きっと父親とは顔見知りなのだろう。 勝手知ったるかのように少年は林春を中へ通そうとしたので、林春はひとまず 頷いて言う通りにする事にした。 彼の言う通りにした方が無難そうだ。 草履を脱ぎ揃えて中に上がったところで、今度はドタドタと荒々しい足音が 聞こえてきて、林春は思わず顔を上げた。 しかも音は複数だ、少年以外にも何人か住人がいるらしい。 「シロォォォォ!! どけどけどけえぇぇぇ!!」 「えええッ!? ちょ、なんなの汰助ッ!?」 「早くどけ、殺されるぅぅぅ!!」 「……またぁ?」 廊下の向こうから猛烈な勢いで走ってくるのは、目の前の少年よりもう少しだけ 年上ぽく見える短い黒髪の少年。 そしてそれを同じような勢いで追いかけてくるもう一人の男性が居るようだが。 「あ、ヤバイ」 「きゃああああッ!?」 「でぇッ!!もう一人いんのかぁぁぁ!!」 ひょいと道を開けるように横にずれた最初の少年が、林春の存在を忘れてたと 思わず顔を顰める。 立ち上がりかけていた林春と黒髪の少年がまともに正面衝突をして、そこで 彼女の意識は途切れてしまった。 ひやりと目元に冷たいものが当てられたのに気がついて、林春は薄く 瞼を持ち上げる。 どうやら濡らした手拭いを乗せてくれたらしい。 少し身動ぎをすると、まだ寝ていろという声がかけられた。 その声に聞き覚えが無くて、林春は小さな声で尋ねる。 「……誰?」 「うちの馬鹿共が迷惑をかけたみたいだな。 少し頭を打ってるみたいだから、まだ休んでいた方が良い」 「あなたは…?」 「楓だ。この神社の神主をしている。 白狼に聞いたが、薬を届けに来てくれたんだったな」 「ええ…そう、なんですけど……」 「八代の大将はどうされた?」 「父は……2年前に亡くなりました」 「そうか……」 やつしろの、という言葉に聞き覚えがあって、林春は思考を巡らせる。 誰だっただろうか、とても小さい頃に一度だけ父親が今のように 呼ばれているのを聞いた記憶があった。 「今は……私が、」 言いながら目元の手拭いを取り上げ、林春はゆっくりと体を起こす。 おい、と制止する声があったが、とにかく今は仕事を終わらせなければならない。 のんびり寝ている場合ではないのだ。 「今は私が、八代の大将です」 「……はははっ、そうか!」 ハッキリとそう告げれば、自分の傍に座っていた相手が声を上げて笑う。 その姿を見て林春はそれ以上の言葉を失った。 目の前に居たのは、自分と同じ年の頃の少女であったからだ。 「あなたが……本当に楓さん?」 「如何にも」 「……想像とだいぶ違うわ……」 「ふふっ、どういう想像をしていたのかを聞きたいな、私は。 まぁ、それはともかく。 薬を届けに来てくれたのだったな」 「あ、はい。 そういえば……内服薬は主に痛み止めで、殆ど外傷薬ばかりですよ? 定期的に同じものを同じだけ納品していたみたいなので、今回も 同じようにしたんですけど……良かったですか?」 「ああ、構わない」 傍に置いてあった包みを手繰り寄せて林春は結び目を解いた。 中にはいくつかの丸薬を包んだものと、後は殆ど塗り薬ばかりだ。 だが、内容は擦過傷や火傷に効くもの、逆に凍傷に効くものなどもある。 それらをひとつひとつ手に取り説明しながら渡すと、ふむと大きく頷いた楓は それで?と言葉を促した。 <続> |