誰かが叫んでいる。
必死で、呼んでいる。
永遠とも思える長い階段を登りきって、振り向くと。
そこには、何もなかった。
何もかもが埋まってしまった、先刻まであった筈の場所をみつめて。

思わず、叫びたくなった。
あの人の、名を。

 

 

 

<追憶>

 

 

 

酷く雨の降る夜半であった。
恐らく今時分に起きている者など自分しかいないであろうと思っていた矢先に、
扉を叩く音がした。

「…どなたですか?」

不審に思い声をかけたが返答はない。
無視しようかと思ったが、どこか気になった。
静かに扉に近づきそっと開く。
思いがけない人間の来訪に、張コウは目を丸くして声を上げた。

「……徐晃殿?」

月明かりもない暗闇の中で、徐晃は俯いたまま佇んでいた。
「どうされたのですか?徐晃殿…」
「少し……」
「はい?」
「少し、雨の音が耳について、眠れなかったものですから…」
そう呟くように告げた徐晃の顔色は、普段より少し青く見える。
それ以上何も言わない徐晃に困ったような吐息をついて、張コウは
彼を中へ招き入れた。

 

ハン城を攻略に出て戻ったのは、つい先日の事。
その後からどこか元気がない事には気付いていた。
どうしたのかと聞いてみても『何でもない』の一点張りだったので、
それ以上は深く追求はしなかったのだが。

でも、多分。

 

「さ、そこに座って下さいな」
そう言って徐晃を寝台に座らせ、自分もその隣に腰掛ける。
ちら、と徐晃の方に目をやり尋ねる。
「徐晃殿って、雨音はお嫌いでしたか?」
「…いや、そうではないのだが……」
「ねぇ、徐晃殿」
寝台から降りて徐晃の前にしゃがみ込み、その顔を覗き込むように見つめる。
見つめ返す徐晃の瞳が、弱々しく揺らいだ。
「本当に、どうかされたのですか?」
「………」
「教えて頂けませんか?」
「………雨が」
ぽつりと、吐き捨てるように言って、徐晃が眉を顰めた。
「雨が、先の戦を思い出させてしまって……」
そう言って、目を伏せる。
「確か……」
詳細な事までは聞かなかったが、水攻めにあいながらも前進した徐晃の部隊が、
蜀軍大将である関羽とその息子関平を討ち、戦いは終結したらしい。
「関羽殿は、貴方のお友達でしたよね?」
「ああ…。まさか、討つ事になるとは……いや、それは解っておりました。
 いずれ、その日が来るだろうという事は……ですが、」
そっと、張コウが徐晃の手に自分の手を沿わせる。
彼の手は、小刻みに震えていた。
「彼は…笑っておられた。拙者に笑顔を向けて言われた。
 『徐晃殿の手にかかるのであれば、悔いはない』…と」
「…辛かった、ですか?」
それに徐晃は首を横に振る。
怪訝そうに見遣ると、徐晃は笑った。
「それが、何ともなかったのです。
 辛いとも、悲しいとも、何も」
「………」
そうやってまた目を伏せる徐晃は、まだ何かを耐えているような
気がしてならなかった。
だが、徐晃は笑って言った。
「…誰かに、聞いて欲しかったのかもしれませぬ。
 申し訳ない、張コウ殿。愚痴など聞かせてしまって…。
 お邪魔して済まなかった。今なら、眠れそうな気がします」
そうして立ち上がろうとする徐晃の肩を手で押さえ、張コウは立ち上がった。
不思議そうに見上げてくる徐晃に、張コウは少し悲しそうに眉根を寄せる。
「それだけでは……ないでしょう?」
徐晃の肩をそっと押さえつけ、張コウは寝台に押し付けた。
驚いた風な目が自分を見てくるが、それに構わず張コウは言った。
「まだ、何か隠しているでしょう?」
「な……何故、そのように……?」
「理由にならないのですよ、それだけでは。
 雨音が嫌な理由も、私の部屋まで来られた理由も。
 そんなに…お喋りになっている理由も。
 まだ、何かありますよね…?」
その言葉に徐晃は軽く目を見開いた。
「隠し事は、ナシにしましょう?」
にっこり笑ってそう言う張コウを暫く呆然と眺めていたが、
徐晃は軽く息をつくと、ぽつりぽつりと話し出した。
「あの時は、酷く雨が降っていて……」

 

蜀軍が水攻めの準備をしているから急げ、という話は司馬懿から聞いていたので、
降りしきる豪雨の中、徐晃は仲間とともに関羽が陣を構える高台まで走っていた。
その時は、解らなかったのだ。
いや、知らなかったのだ。
水攻めとは、如何なるものか。

 

「階段の上から…走れ、という叫びが聞こえてきました。
 拙者が階段に足をかけた瞬間に、何かが崩れる音と、凄い水の音がして……」
ぎゅうと、張コウの服を強く掴む。
震えるような吐息をついて、徐晃は続けた。
「階段を登りきって振り向くと……そこには、何もなかったのです」
「……何も、ですか?」
「ああ。大量の水と……ほんの少し前まで共に武器を奮い戦っていた、
 仲間達だったもの、以外は……」
背中に、ぞくりとしたものが走った。
実際見たわけでもないのに、徐晃の話と表情だけで全てが読み取れる。
共に戦場に居る事ができていたなら、もっと感じることができたかもしれない。
「それは……辛かったでしょう……」
そっと、徐晃の体を抱きしめる。
微動だにしないその体は、それでも確かな温もりがあって。
不謹慎だが、そんな中を無事に帰ってきてくれた事を嬉しくも感じた。
「今まで場数は沢山踏んでおりましたし、人が死ぬなど当たり前のように見てきました。
 …ですが」
強く、唇を噛み締め何かを耐えるような、表情。

 

「あれだけの人数を、一瞬で一度に失ったのは……初めてでした」

 

伏せた徐晃の目から一粒、滴が零れ落ちた。
「徐晃殿……」
「雨の音は……それをどうしても思い出してしまう」
そう一言残して、徐晃は抱きしめてくる張コウの背に腕を回した。
張コウには、かけてやれる言葉が見つからなかった。
実際、共に居たわけではないので、その痛みを分かち合う事などできなければ、
生半可な言葉などむしろ逆効果となるだけであって。
「徐晃殿、今日はここでお休みなさい?」
「え……」
「今、一人きりで居るのは辛いでしょう?」
自分には何も言える事はないけれど、一緒に居る事でその痛みが少しでも和らぐのなら。
徐晃が自分の元へ来た理由も、きっとそうであると思いたい。
「だ、だが……」
「嫌ですね、何もしたりしませんよ。
 つけこんだりするような真似、趣味じゃありませんからね」
「張コウ殿……」
「眠れないなら、話をしませんか。
 雨が止むまで付き合いますよ」
そう言って柔らかく微笑む張コウの顔を見て、漸く徐晃はほっとしたような笑みを浮かべた。

 

 

 

早朝、扉を叩く音で目が覚めた。
隣にまだ彼が居る事を確認してから、ゆっくり体を起こす。
気だるそうに扉を開けると、隻眼の男が立っていた。
「これは…夏候惇殿。おはようございます」
「なんだ、まだ寝てたのか。起こして済まないな」
「いえ…それで、どのようなご用件でしょうか?」
まだしょぼつく目を擦りながら、張コウは首を傾げる。
「いや、徐晃を捜しているんだがな」
「…徐晃殿、ですか?」
「ああ…昨日、雨が降っていたら訓練場でと言っていたのだが、
 雨も止んだし、今日の練兵は外でやろうと思ったんだが…」
「はぁ…」
「部屋に行っても居なかったから、こっちに居るかと思ってな」
「そうでしたか」
にっこりと笑みを浮かべて張コウが答える。
「残念ながら、こちらにはいらっしゃいませんよ」
「そうか…いや、寝てる所を邪魔して悪かったな」
「気にしないで下さい。
 私も徐晃殿を見かけたら伝えておきましょう」
「済まん、頼んだ」
そう言うと、夏候惇は踵を返して去っていく。
それを見送ってから、張コウは静かに扉を閉めた。
「すみませんね、夏候惇殿…。
 明け方になって…やっと眠って下さったものですから」
振り返ると、敷布に包まって眠る徐晃の姿があった。
「さて…私ももう少し眠りますか」

 

彼の隣で。彼の温もりを感じながら。

 

小さく微笑みを浮かべ、それから大きく欠伸すると、張コウはまた
寝台へと戻って行った。

 

 

 

 

<完>

 

 

 

6789番を踏まれた絵如サマのリクエストで、張徐SSです。
どんな話でも良い…という事でしたので、思いつくままに書かせて頂きました。

弱音を吐く徐晃さんと、優しく包んであげる張コウさん。

…という、くっさいのをテーマにしてみまして。(笑)
すいません、徐晃がなよっちくて…すいませんすいません!!(><)

 

キリ番ゲットおめでとうございました〜〜vvv