素直に、なるという行動が――――。
どれほど人によって「簡単」などと言えてしまうのだろうか。

 

 

心鏡ノ扉

 

 

司馬懿はすることもなく、ただ書簡にかかる紐を手のひらで遊
ばせていた。することがない訳ではなく、することなら後から
後からといらないほど出てくるというのに。その動きを持つ意
思がシナプス伝播を拒否しているかのようだ。
動く意志など、―――その空虚を眺めるような瞳が、朱の紐を
見つめていることでも分かる。

「ふぅ・・・」

深く吐き出された吐息には、迷路に迷い込んだ後の、出口を見
出せないまま高く聳えたつ壁を見上げているだけのような、ど
こか諦めにある淵ぎりぎりのように。考えを新たにしようとし
ている時のような、そんな息のつきかただった。
見えない奥にどんな危険があるかと、その危険に心震わせてい
るようにも見えた。

「暇、だな・・・」

ぽつりと呟かれた言葉は、現状の机上にたて並べられている書
簡の山は眼中にはないらしい。司馬懿という存在を遠巻きに見
ていた文官は苦笑してその様子を見ていた。
「心、ここに在らずのようですが・・・如何なさいましたか?」
そう聞いてきた男を、司馬懿は何気なく見上げる。そこに立っ
ていたのは徐晃と友誼もある満寵という男だった。同じ文官と
あり、時には同じように戦場に出陣することもある。司馬懿は
一瞥すると、「なんでもない」とだけ返して書簡を再び、意味
も無く広げてみせた。それは話かけられることを拒否する姿勢
であることが分かり、満寵はもう一度苦笑を浮かべ背中を向けた。

    − 笑うと結構幼くなるんだな。 -

不意に脳裏を過ぎった言葉に、司馬懿は瞬間・・・目を見開いた。
・・・が僅かで伏せる。
『感情』というバケモノを、当たり前のように駆使し。自由に
羽ばたかせている男だと、初めてみた瞬間に思った。それは間
違いでもなくて、彼はよく笑い。時に檄し、泣くことが出来た
。馴染む気がまったくなかった司馬懿を引っ張ったりと、まる
で子供が懐いてくるような素直さで、彼―――夏侯淵は司馬懿
を魅了した。
特別なことではないと、笑いながら普通に接してきた彼を、司
馬懿は異様なモノを見るような瞳で見ていたが。
いつの間にか、当たり前に注がれる言葉に呪歌に酔いしれるよ
うな気持ちになっていた。

誤解、していた。

「私だけが置いてけぼりをくらう」
喉を無意識に通った言葉に、司馬懿は慌てて口元を押さえ。―
――周囲を見渡した。
迂闊、だと思い。不意の切なさが胸をついた。
それはちぐはぐな感情ではあったが、司馬懿はその言葉に昔日
の自分を思い出す。
確かに、曹操が作る魏という大国に身を置くのは、才能があれ
ば上へと幾らでも望めるのだから『ありあまる叡智』が胸を鳴
らす。そして人材は曹操自身が誇るだけあり、確かに申し分な
いほどの広さを持っていることも知っている。
無理やりでさえないのであったら、もしかして馴染むことにも
う少し抵抗が無かったかも知れない。―――そう後悔すること
も多々あるほどに、この国に。色に。惹かれていく自分を、司
馬懿は分かっていた。それでも自身のプライドもあった。思惑
もあった。だから極力この国に魅了されるまいと、さらに頑な
に心を閉ざす司馬懿。日を追うごとに他人は司馬懿をある容に
納めることで、馴染まない彼を遠巻きにみる。そう珍獣をみる
と同じ目で、司馬懿を見るものさえも出てきた。

「いきなりだったからな・・・」

もう室には誰の姿もない。ここは基本的に司馬懿が一番興味を
引いた人間が見えることで、主である曹操に気づかれない程度
の小細工を使いもらった個人の執務室でもある。手伝う者が現
れるときのみ、ここは一部を開放されるのだが人の気配が消え
たこの部屋は『寂』という言葉が一番当てはまるほどの静かさ
に満たされる。
静寂は司馬懿がもっとも愛している部類であった。
だから人の気配がないこの部屋で、窓の外から流れてくる風に
乗って耳に届く音が好きだった。
頬杖をつき思い出す。

初めてあった日を。

彼、は。初めから他の人間よりずっと砕けた態度で話しかけて
きた。

「俺が夏侯、妙才だ!」

満面の笑顔を無駄に振り撒くな、とか。
どうして構ってくるのだ、とか。
沢山の疑念と憂鬱に駆られる自身の余裕の持てない心を見透か
されているようで、正直直接瞳を見られるのは好まなかった。
目を合わそうとする夏侯淵に、司馬懿はさりげなさを装い反ら
す。いつからか、こんな動作を繰り返す夏侯淵と司馬懿の二人
の互いへの反応は、無理やり出仕させた曹操にはいいことのよ
うに映っていた。

「どうだ司馬懿…仕事は進んでいるか?」
「する気がないが、主公に提出分はそこにある。好きに持って
いくといい」

つっけんどんな対応も既に慣れた夏侯惇は、ため息というか嘆
息を僅かについて眉を顰めただけだ。司馬懿にはこれぐらいの
距離で、止まってくれる夏侯惇は丁度いいのだ。
書簡を片手に持ち、じゃあなとだけ告げるともう振り返らない
。それをなんとは無しに見送った司馬懿の真横にある窓が全開
に開いた。

「よっ!茶くれや」

いつものように窓に腕を乗せて、顔を覗かせる夏侯淵。これが
彼のいつもの来訪手段である。
「いい加減に扉から顔を出す癖をつけては如何か」
睨みつける司馬懿に、まるで構うことなく夏侯淵は窓に片手を
ついてひらりと跨ぐ。体重をまったく感じさせないその動きは
武官ならではの技ではないだろうか。妙なところで毎回の感心
をしてしまう司馬懿だ。
その一連の動作様をじっと見ている。
「んな面倒くせぇ真似しねぇと駄目か?」
子犬のように小首を傾げる夏侯淵に、その無意識に振り撒く愛
嬌に司馬懿は苦笑した。

「冗談だ。…」

あっさりと一言で打ち切って司馬懿が奥へと進んでいく。それ
を見送り、夏侯淵がいつもの指定席代わりに選んで座っている
席へと腰を降ろした。

そこはいつも司馬懿が座る席の、丁度―――隣。

 

「急なので熱いものしか用意が出来ないが、冷めるまで待てば
飲めよう」

そう言いながら、目前に置く司馬懿。自分の席に腰を落ち着け
、先ほどまで視界に入れるのも嫌っていた書簡を、その裾を掴
み広げる。並べられている言葉を目で追う司馬懿の姿を、夏侯
淵は何が楽しいのか、じっとみている。

《すげぇ集中力だな…》

既に隣に夏侯淵がいることも消えている。
真剣な横顔を、そっとただ眺める。
集中しているときの真剣な横顔を、こんな間近で見れるのは夏
侯淵の他に誰も居ないだろう。まじまじと見ていると、司馬懿
は眉根を顰めて、夏侯淵を見返した。どう見ても不機嫌そうな
眼差しである。

「じろじろ見るほど、私の顔に何かついているのか?」

訝しそうに、寄せられた眉間を、夏侯淵はふにっとつつく。一
瞬真っ白になった視界。・・・

「なにを…されるのかな…?」

ふるふると筆を握る手が震える。
「いや、んなしかめっ面みてるとつい、手が動いちまうんだ」
にやにやと笑う夏侯淵に、今にも爆発しそうな怒りゲージを振
り切り中華キャノンが出るかと思われた寸前、―――珍しく動
きが止まった。

「ん…?」

あまりにも珍しい動きだった為、構えたまま逆に戸惑いを覚え
る夏侯淵に、司馬懿はふっと口端に笑みを浮かべる。
「いつも言われているから止めてみた。…そろそろお茶も冷め
ている頃だろう、飲むといい」
にやり、してやったりと言わん顔で自分の冷え切っている茶を
口に含む。夏侯淵もそうだが、司馬懿も相当の猫舌を持っている。
互いになんとも静かな一拍を感じ、胸に吹くさわやかな風を感
じつつあった。

「仕事終わったらよ、たまには一緒に酒でもどうだ?」

くいっと飲む真似をすると、司馬懿は薄く笑う。
よく、笑うようになったと。夏侯淵は口には出さずに思ってし
まう。言えば今度こそ中華キャノンが火を噴き、爆ぜてしまう。
・・・それは、勘弁であったから。

「そうだな」

そう言うとまた静かに自分の世界へと戻る司馬懿。今度は邪魔
しないように待っているといつの間にか、視界が濁り―――気
がついた時には、寝息に変っていた。
司馬懿が一段落して、肩に入っていた力を抜くと同時に何気な
く視線を向けると、すやすやと眠る夏侯淵の。年上とは思えな
い寝顔があった。

「まったく…私の執務室は貴方の仮眠所ではないぞ」

くくくっと喉を押さえて笑う。
どうしてこんなに無防備になってくれるのか。
自分を信じてくれているからか。

それとも――――。

 

「私だけが気持ちを置いてけぼりされてしまう」

 

 

彼にとって特別ではないことは、
自分にとってどれだけ特別なことか。
きっと。
彼はどれだけ一緒に居ても、
気がついてくれないだろう。

けれど。

そういう彼だからこそ―――――。

 

 

 

おわり!です。
佐伯さまへ!お約束のブツです。
こんな話ではありますが、書くのは楽しくて。実は短くしまし
た(すいません、これでも短くしたんです/涙)。
淵司馬は佐伯様のサイトで嵌って以来暴走気味に嵌りまくって
います!ああ…楽しかったですvv
どうぞ、こんな話ではありますが、よければお納め頂けますよ
うにお願い申し上げます!!<m(_)m>

20040706 byましばこうき

 

 

 

ましばこうき様から、素敵な淵司馬小説戴きました〜vvv

どこまでも淵ちゃんが優しくて、司馬さんが微笑ましくて、ちょっぴり、哀しい。
そんな二人の関係が、とても温かく思えましたvv

窓から現れる淵ちゃんがめちゃ可愛いです。
そして帰るときもやっぱり窓からなんだろうか?とかちょっと考えてしまいました。(笑)

司馬「せめて帰る時ぐらい、扉から出ようとか思わんのかっ!?」
淵「え〜、だってこっからの方が近いんだよ」

…とか何とか言いながら。(笑)

ましばさんの書かれる、そんな淵ちゃんと、中華キャノンを常時発射準備できている、
そんな司馬さんが大好きです〜vvv(またそんなピンポイントで…)

本当に、素敵な小説ありがとうございました〜vv