曰く、彼は空のような人だ。

 

 

 

<空>

 

 

 

 

どこまでも澄み渡り雄大で。
そして広く、何ものをも拒むことは無い。
「………何じゃ幸村、人の顔をじろじろ見おって」
「いえ、別に」
すました顔で何事も無いようにそう答えると、とても怪訝そうな表情。
「変な奴だなぁ」
「お館様ほどではありません」
「………言うようになったな、お前」
憮然とした顔で言う彼も、どこかいとおしい。
跪いていた身体を立ち上がらせ、槍を手にする。
戦が始まる。
そして自分は、前線へと赴く。
もう、何度も繰り返されている事だ。
また己は勝って戻って来るだろう。
敵大将の首を、手土産に。
これも、もう何度だって繰り返されている事。
「お館様、」
「うん?」
打てば響くように、返事が返ってくる。
それが、とても嬉しかった。
「それでは、行って参ります」
「今回も期待しとるからな」
「お任せ下さい」
にこりと笑って、そして何か気付いたように幸村は信玄へと近付いた。
頬に、触れるような口付けを落とす。
「『決して』前線には出てこられないように、お願いしますよ」
「………含みのある言い方だな」
「ご自身の胸にお尋ね下さい」
最近ちょっと生意気になってきたんじゃないかお前。
ぶつぶつと口の中で言う信玄に、自然に笑みが出る。
そこに居てくれるだけで、心穏やかになれる人だ。
それでは…と背を向け出陣しようとする幸村を、信玄が止めた。
「……何か、」
まだ御用が…と続けようとした唇は、さりげなく信玄に掠め取られていた。
「……………。」
言葉を無くした幸村を、信玄が豪快に笑い飛ばす。
「まだまだだなァ、幸村よ」
「お、お館様っ!!」
頬を朱に染めて抗議しようとする幸村の耳元に口を寄せて、信玄は囁いた。

 

「死ぬんじゃないぞ?」

 

仮面の奥のその目は、とてもとても優しくて。
思わずどきりと鼓動が跳ねる。
「……必ず」
「気をつけて行って来いよー」
まるで出かける子供を見送る親のように、信玄が軽く手を振った。
どこまでも子供扱いされる自分が少し情けなくて、そして主君が少し恨めしくて。
出掛けに振り向いた幸村は、信玄に向かって舌を出した。
「手土産は、家康の首で!!」
槍を掲げてそう告げると、駆け出す。
その背を見送りながら信玄が穏やかに笑みを浮かべた。
まだまだ子供のようだが、時折見せる強い表情が。
引き摺られそうになるのを上手くかわすのが、最近は精一杯だ。
「………参ったなァ…」
部下に手篭めにされる主君なんぞ、聞いた事が無いぞ。
あまり参っても無さそうにそう呟いて、信玄は軽く肩を竦めた。

 

 

 

 

 

 

風向きが、変わった気がした。

 

「……?」
訝しげに眉を顰めて、幸村が空を仰ぐ。
どこまでも澄んだ青は、先刻から変化は無い。
だが、どこか胸騒ぎがして。
「………お館様……?」
後ろを振り向いた。
何事も無い平地。
武器を手に、次々と駆けて行く味方の兵士。
「どしたの?」
幸村の動きが止まったのに気が付いて、くのいちが声をかけた。
「……嫌な予感がする。
 すまん、此処を頼んだ!!」
「えっ!?
 ちょ、ちょっとォ!!」
くのいちの抗議の声を振り切って、幸村は馬を走らせた。

 

 

 

 

 

 

風向きが、変わったか?

 

空を見上げて信玄が眉を顰めた。
流れる雲は、速い。
ふと突き刺さるような殺気を感じて、信玄がゆっくりと振り向いた。
「………何だ、誰かと思うたら」
黒装束に身を包んだ男が一人、短刀を手に佇んでいた。
「徐かなること、林の如し……とは、言ったものだな」
「どうやって入り込んだか、全然気付かなんだわ」
不覚、と剣を手に信玄が立ち上がる。
実物を見たことは無かったが、名は聞いた事があった。
服部半蔵。
名と共に、実力も轟いている。
「お命、頂戴する」
低くくぐもった声でそう告げると、半蔵が短刀を手に走った。
信玄も腕に自信が無いわけではない。
だが、半蔵の疾さについて行けるかどうかはまた、別の話で。
「……これは参ったね」
あまり参っても無さそうに呟く。
風向きがまた、変わったからだ。
ひゅ、と風を切る音と共に、自分と相手の間を割るようにして槍が突き立つ。
警戒するように半蔵が足を止め、一歩後退した。
「何奴……!?」
訝しげに半蔵が視線を送るのを、信玄がさして面白くも無さそうに剣を下げた。
「お館様っ!!」
馬が駆ける。
「幸村か……」
形勢はこれで逆転だ。
それを肌で感じたか、半蔵も短刀を懐に収めると信玄と幸村を交互に見遣りながら
もう一歩、後ろへ下がる。
「失策……」
闇を走る忍びは、空気に溶けるように消えた。
「お館様、ご無事で!?」
馬を降りて幸村が駆け寄ってくる。
「見ての通り、だ」
軽く肩を竦めると、信玄も剣を収める。
改めて幸村に視線を送って、苦笑を浮かべた。
「よく戻って来れたなぁ」
「それは……その、」
あの虫の報せをどう説明したものかと、幸村が困ったように小首を傾げる。
それ以上重ねて訊ねる事はせず、信玄は空を見上げた。
「さァて……あとは、家康だけだな。
 この分じゃ、恐らくは撤退の動きを見せるんじゃないかと思うがなぁ…」
「は……」

 

「手土産、貰えるのではなかったのかな?」

 

にやにやと笑みを浮かべて言う信玄に、幸村はあからさまに表情を歪めた。
この期に及んでそういう事を言う人なのだ。
「………解りました、解りましたよッッ!!
 大人しく待ってて下さいよ、お館様!!」
そう強く言うと幸村は馬に跨り鞭を入れる。
残された信玄が、くつくつと堪えきれなかった笑みを零していた。
「まだまだだなァ、幸村よ」
だけど仮面の奥のその目は、やはりとても優しくて。

 

 

 

 

ここから本隊の中を突っ切り先頭に出て、尚且つ敵陣へ突っ込まなければならないのか。
それまでに家康が逃げ出さないとも限らない。
それでも自分は行かなければ。

 

惚れた弱みというやつか。

 

自分の動きや仲間の動き、更には敵の動きまであれこれ計算しながら、
途方に暮れたように幸村は空を見上げた。

 

 

 

 

どこまでも澄み渡り雄大で。
そして広く、何ものをも拒むことは無い。
だが、それはとても気紛れで、とてもではないが掴みきれるものではなくて。
自由気ままに奔放に、だけどいつでもその場所に。

 

曰く、彼は空のような人だ…と。

 

 

 

 

<終>

 

 

 

前のがちょびっとダークなカンジだったので、
今回は軽くいってみました。
お互いに振り回したり、振り回されたり、
歳の割には幼い恋愛をする2人が良いです。

しかし私も、信玄をどう扱ったら良いのかわかりません。(遠い目)