<道標・特訓>
孫権の成長は、目まぐるしいものであった。
司馬懿の与える知識を水のように吸収し、時には曹操と問答を繰り広げるようになった。
記憶は、戻っていない。
そんな今の孫権は、「軍師」という肩書きを持つのが一番相応しいだろう。
司馬懿の下についてであれば、戦場に出るのもそう遠い未来の話ではない。
だが、彼にはどうしても苦手なものがあった。
固い金属音と共に、弾かれて後方に飛ぶ槍。
向かいに立つ男は戟の柄で肩を軽く叩きながら、短く嘆息した。
「駄目だな、そこらの雑兵と変わらん」
「張遼殿……なにもそんなにはっきりと言わなくても……」
共に鍛練場に居た徐晃が、苦笑を浮かべる。
床に座り込んだ男の傍に歩いていって、隣に足をついた。
「大丈夫ですか?孫権殿」
「あ、あぁ…はい、何とか、」
荒い息をつきながら、孫権が頷いた。
立っている場所から微動だにせずに、張遼がただ淡々と告げる。
「しかし…正直、これでは戦場などとてもじゃないが…」
「………」
困ったように徐晃も眉を寄せた。
張遼のようにはっきりとは言わないが、それを否定もしないのは
意見が同じだからだ。
「何が、悪いのでしょうか……」
「そもそもの基本が成っていない。
言い出したらキリが無いが、それでも聞くか?」
「……いえ、やっぱりいいです」
苦笑を浮かべて、孫権が答える。
そして立ち上がって、転がっていた槍を拾い上げた。
「………」
手の中の槍を見つめる。
どうにも、手になじむ感じがしない。
武器を変えてみるべきか。
「……徐晃殿」
「はい?」
「他の武具は、どちらにあるのでしょうか」
その問いに、徐晃が怪訝そうな表情を浮かべた。
槍、弓、戟、剣、斧。
武具の収められている場所には、あらゆる種類の武器が揃っていた。
そのひとつひとつを手に取り、軽く振ってみる。
内のひとつに、目が止まった。
遠慮がちに手を伸ばして、柄を握る。
それを持ち上げ、軽く構える。
それまでと、何か違う感じがした。
「これは……」
その武器を手に、また場内に戻ってきた孫権が、張遼の向かいに立った。
「張遼殿、今度はこれでお願いします」
手にしていたのは、細身の剣。
夏侯惇や夏侯淵が持つものとはまた違う、軽量の素早さ重視の物だ。
速さは個人の力量なのでともかく、軽いのが都合良かった。
槍は重すぎて少し動くとすぐに疲れが出る。
大振りの剣や斧などでは、構えるだけで一苦労だ。
それにもうひとつ、孫権には妙な確信があった。
自分はこれを使っていた事がある、と。
構え方を、攻撃の型を、体が覚えている。
「…………成る程、な」
張遼も構えを取って孫権を見遣り、小さく頷く。
気迫が、変わった。
「行くぞ!!」
床を蹴り、張遼が戟を大きく振り上げた。
それを孫権がほんの小さな動作で受け流す。
一瞬、2人の視線が合う。
すかさず上から振り下ろされる戟を、孫権が両手で剣を支えるようにして
受け止めた。
金属の擦れ合う嫌な音を立てながら競り合っていると、
「…っ、」
さすがに部が悪いと思った孫権が、剣を引いて大きく後ろに跳んだ。
「………ふむ、」
張遼が武器を手に一歩下がり、構えを解く。
そして孫権に向かって言った。
「成る程…記憶は無くしていても、武芸の『型』は体に叩き込まれて
いるようだな。ちゃんと覚えている」
「それでは……」
「もう少し特訓を積めば、すぐに使い物になりそうだ」
「………そうですか?」
鍛練場の扉に背を預けて横から口を挟んだのは、徐晃。
孫権は勿論の事、張遼も驚いたような表情で徐晃を見遣る。
「徐晃殿?」
「孫権殿は一度もこちらに攻撃を仕掛けてきておりませぬ。
先程も、張遼殿がわざと見せた隙に全く乗って来られませんでした。
隙に気付かなかった…というよりは、攻撃するのを躊躇われた。
防御が出来ていても攻撃が出来なければ、戦場では無意味ですぞ」
こういう事に関しては厳しい徐晃が、淡々と自分の意見を述べる。
いつもは優しく見てくるその目も、今は鋭い光を宿して。
徐晃は扉から離れると、己の武器を手に孫権の向かいに立った。
「張遼殿、次は拙者が致しましょう。
貴殿は外を頼みます」
「……解った。そうしよう」
肩を竦めて苦笑を浮かべると、張遼は鍛錬場の入り口に立ち、
先刻まで徐晃がしていたようにその背を扉に凭れかけさせた。
徐晃が斧を構えて、真っ直ぐに孫権を見る。
一瞬、孫権の表情が強張った。
「さぁ、遠慮など無用です。
好きなようにかかってきて下され」
剣を握る手が、震えた。
正直、躊躇っているといえば、そうなる。
自分の力では彼等に敵うなど微塵も思ってはいないけれど、それでも
何かの間違いで当たってしまっては、きっと痛いだろう、血も出るだろう。
そう思うと、何故だか身体が震えるのだ。
頭の中で『いけないこと』だと訴えるのだ。
無論、そんな道理が戦に通用などしない事は孫権自身も解っている。
「……………」
一向に動く気配の見せない孫権に、徐晃が構えを解いた。
「孫権殿、『出来ない』のか『やりたくない』のか、どちらですか」
普段の徐晃を思うと信じられない程、冷たい言葉。
徐晃をよく知る張遼すら、その態度に怪訝そうな表情を見せていた。
ふぅ、と小さく吐息をついて、徐晃が斧を持ち上げた。
「孫権殿……甘い考えは捨てた方が宜しいですぞ」
「…で、ですが……」
「では、こうしましょう。
拙者を敵兵だと思って下され」
言うと同時に、孫権に向かって飛び掛る。
慌てて剣を持ち上げ、何とか一撃目は凌いだ。
張遼に勝るとも劣らぬ強い一撃に、手がしびれる。
「敵兵は礼も合図も前触れもなく、突然襲い掛かってきます。
貴殿は……どう対処される?」
言うより早く二撃目がきた。
横薙ぎに振られた斧を、体を深く沈めて何とかかわす。
「もし…もしも、拙者に対して本気で向かってくる事が出来ないのであれば、
拙者が今ここで貴殿を殺します」
「………っ、徐晃殿……!!」
「弱音は聞かぬ。
終わらせたければ、本気で来るしかありません」
「く……っ」
徐晃が狙ってくる場所は、全て急所ばかりだ。
次々と振り下ろされる攻撃を剣で弾く。
だが、それも少しずつ腕が悲鳴を上げていって、反応が鈍くなっていく。
そのぐらい、一撃が重いのだ。
この攻撃を終わらせるために自分も反撃を…と思うのだが、そう思う度に
酷く胸が痛んだ。
人を斬る、という行為は、痛みしか生まない。
誰に教わった覚えもないのに、最初から頭にそういう思いがこびりついていた。
それ故に、戸惑うのだ。
「……どうしました、孫権殿。
このまま此処で死を選ぶと申すのか?」
「そんな……事……っ、」
真っ直ぐ上から振り下ろされる斧を、剣で受け止めた。
読みやすい短直な軌道で避けられると解ってはいたのに、もう体がついていけないのだ。
自分は酷く荒れた呼吸をしているのに、徐晃は息ひとつ乱していない。
手加減しているのだ。
孫権の足が体重を支えきれなくなって、がくりと膝をついた。
ここで反撃できなければ、間違いなく殺される。
理解はしているのに駄々でも捏ねているかのように、体が頑なに攻撃することを拒む。
悟った徐晃が、檄を飛ばした。
「迷いを捨てろ!!」
一度斧を引いて、もう一度上段に構える。
その斧が風を切って自分に向かって振り下ろされてくるのを『聴いた』瞬間に、
孫権の瞳が、真っ直ぐ徐晃を捉えた。
速さは、孫権の方が上だ。
斧の側面に剣の柄を当て軌道を逸らせる。
そのまま刃を徐晃の喉元へ突きつけた所で、徐晃が斧を引いた。
「……できるではありませんか」
「徐晃殿……」
「守るだけでは敵には勝てません。
襲われた時に、貴殿は大人しく殺されてやるおつもりか?」
「で、ですが……」
「敵兵は、待ってはくれませんぞ。
こんな会話をする事もない。
生きるか死ぬか、それだけなのです」
「………解っては…いるつもりなのですが……」
「話の途中で悪いのだが、」
それまで黙って見ていた張遼が、声を上げた。
「誰か来たようだ」
扉をコツ、と弾いて張遼が徐晃を見る。
「え、そ、それはいかん……孫権殿、早く隠れて……!」
先程までの厳しい雰囲気は微塵も感じさせず、徐晃はあたふたと孫権の
背を押して隅の木箱の陰に隠そうとする。
だが、それを張遼が止めた。
「徐晃殿、どうやらその必要はなさそうだ」
「……どういう事ですか?」
「この足音は……」
張遼が答えを言うよりも早く、鍛錬場の扉が勢い良く開かれる。
そこから現れたのは。
「取り込み中悪いのだが、緊急事態だ」
「……司馬懿殿、」
ほっと息を漏らして、徐晃が肩の力を抜く。
張遼が、視線を向けた。
「緊急事態とは?」
その言葉に些か表情を険しくして、司馬懿が3人を順番に見遣る。
押し殺した声音で、告げた。
「蜀軍が攻めてきた」
<続>
修行修行。
でも、この辺の会話は後々引っ張りそうだなぁ…。(笑)