<道標・自分のこと>

 

 

 

 

「あ、あの……孫権、殿……ですよね?」
恐る恐る、確認するかのように張コウが訊ねる。
すると孫権は少し困惑したような表情を見せ、それから、頷いた。
「先程ここに居られた方に、名前だけは教えて貰えました。
 孫権仲謀…それが、私の名前だそうです」
「ここに、居た方……ですか?」
「はい。確かお名前は……徐晃殿…と仰いましたか」
「徐晃殿が……」
ぽつりと、反芻して張コウがついこの間の出来事を思い出す。
確か重要な任務ができてしまったと、この離れには近付くなと、
そう言われていた。
「そうでしたか……こういう事だったのですね……」
「………あの、」
意を決したような表情で、孫権が2人の顔を交互に見遣る。
「徐晃殿が仰るには、私は記憶を無くしてしまっているそうです。
 確かに……私は、自分の名前も覚えていない。何処で、何をしていた人間かも
 解らないのです。
 それで……その、お2人とも、私の事を知ってらっしゃるようですから……」
「教えてくれ、とか、そういう事か?」
途方に暮れた表情で頭を掻いて、夏侯淵が張コウを見遣った。
「………う〜ん……困りましたねぇ……」
張コウが腕を組んで眉を顰め、心底悩んだ表情を見せるのも珍しい。
「お願いします……!!」
そう痛切なまでに訴えかけて、孫権は頭を下げた。
知りたかった。自分の事ぐらい、理解したかった。

 

あの場所は何処だったのか。
あれらは、誰だったのか。
自分を知る事ができれば、思い出せるかもしれなかった。
あの時、手を振り払った時の男の顔が、忘れられない。
何処か信じられないものを見ているような、そんな目をしていた。

 

真摯に頭を下げてくる孫権に、張コウと夏侯淵は顔を見合わせた。
何も覚えていないのだろうという事は、態度を見て解る。
夏侯淵は、一度だけ孫権を戦場で見た事があった。
彼はこんな目をして、こんな風にものを言う人間では無かった。
沢山繋いでいた手を、握っていた手を、この男はみんな放してしまったのか。
そう思うと、なんだか可哀想で。

 

「なぁ……教えてやっても良いんじゃねぇ?」

 

そう、ぽつりと言葉を漏らして、夏侯淵はどっかりと床に座り込んだ。
「俺が知ってる限りのお前の情報を、教えてやらぁ」
その言葉に髪を掻き上げながら短く嘆息して、張コウも傍にあった椅子を手繰り寄せた。
「仕方が無いですねぇ……及ばずながら、私も協力致しましょう」
そしてそこに腰掛けて、微笑を浮かべる。
一瞬驚いたような表情を見せて、その後に。

 

「ありがとうございます……!!」

 

孫権はもう一度、深く頭を下げる。
そして、長い長い話が始まった。

 

 

 

 

 

 

夏侯淵と司馬懿が隅の方で話をしている間、徐晃はゆっくりと孫権に歩み寄って
その顔を覗き込んだ。
「お加減の方は、如何ですか?」
「あ、はい。体の調子の方は、もう何とも……」
「そうですか。それは良かった」
にこりと笑みを浮かべて、徐晃がそう答える。
張コウは窓へ歩み寄ると、それを静かに閉じた。
この狭い部屋の中にこの人数は、いくらなんでも目立ちそうだ。
視線を投げかけると、徐晃も理解したように頷いて扉を閉めて戻って来る。
そうしてまた戻ってきて、徐晃は孫権の方に手を置いた。
「2人と、どんなお話をされたのですか?」
「私の事を、色々と教えて頂きました。
 それで思い出せた訳でもなく、実感が湧いた訳でもありませんが…、
 でも、少し、ほっとしました」
「そうですか…」
「私が逃げ出したあの場所は、やはり私の『家』だったようです」
「逃げ出した……!?」
思いもよらない言葉に、徐晃が驚きの声を上げる。
「逃げたとは……どういう事です?」
「言葉の通り、です……。
 私はあの場所が怖くて、逃げ出しました。
 河に泊まっていた小舟に身を隠した所までは覚えているのですが…。
 後は、気がついたら此処に居ましたので……」
小さく小さく自嘲するような笑みを見せて、孫権は言った。

 

「何故かは解らないけれど、私はあの場所は嫌だと、そう思いました」

 

あそこに居ては、自分が自分じゃなくなってしまいそうで。
何がそう思わせたのかも、気がつかないけれども。
「………あの場所が家だったと知って……帰りたいと思いましたか?」
張コウの問いかけに、孫権は軽くかぶりを振った。
「帰りたいとは思いません。ですが、帰りたくないとも、思えません…。
 ただ、こう…あの場所を思い出そうとすると……身が震えるのです。
 怖くて……怖くて堪らないんです……」
両肩を両腕で抱えるようにして、孫権は丸くなる。
その背中を撫でてやりながら、徐晃は張コウに目配せをする。
だが張コウの瞳からは、困惑の色を見せて戸惑っている事しか窺えなかった。

 

 

 

 

 

「孫権殿、この国に居るか?」

 

その言葉に孫権はゆっくりと顔を上げる。
目の前には、どこか難しそうな表情を浮かべた男が一人。
耳元で張コウが「司馬懿殿というのですよ」と、囁いた。
「ここに…ですか?」
「その様子では、行く宛など無さそうだ」
そう言われて、孫権は押し黙る。
確かに、それはその通りなのだ。
家はある。だが帰りたいわけではない。
だからといって、この場所を追い出されても行く先などない。
「その代わり、」
黙っている孫権を悩んでいるのだと思ったか、司馬懿が続けた。
「此処に居るなら、それなりの働きはして頂く」
「…………」
「嫌か?」
そう訊ねて、司馬懿が少し困ったような顔をした。
孫権が、ゆっくりと首を横に振る。

 

「……いいえ」

もう少し、ここに居てみよう。
この人達を、見てみよう。
この優しい、人達を。

 

「では決まりだな。
 孫権殿が動けるようなら、場所の移動をして貰おう」
「移動って……何処だよ?」
「私の部屋だ」
何の気なくそう言って、司馬懿はさっさと部屋を出てしまう。
それを慌てて追いかけて、夏侯淵はその隣に並んだ。
「……なぁ、仲達」
「何だ」
「お前、落ち込んでるか?」
「……どうしてそう思う」
「いやぁ…………単なる勘なんだけどよ」
「…………」
立ち止まって俯いてしまった司馬懿に、夏侯淵も少し先で足を止めて
振り返った。

 

「彼には、選択肢が無さ過ぎる」

 

「………どういう事……だ?」
怪訝そうな顔をして、夏侯淵は問い返した。
「ここの将になるか、人質になるか。
 2つしか選択肢が残されていない」
「………そう、か……」
「だから、妙才殿」
司馬懿が顔を上げる。
その表情は、少しだけ明るくなっていた。
「彼が素直にここに逗留すると言ってくれた時、私は正直ホッとした。
 少しでも……少しでも待遇の良い方が、良いではないか」
「お前………」
まじまじと司馬懿の顔を見つめていた夏侯淵が、戻ってきて司馬懿の真正面に立つ。
そして、その頭をぐりぐりと撫で始めた。
「な…っ、何をする妙才殿!!
 こら、止せっ!!」
「お前ってさぁ、そういう所がさぁ、」
手を止めて、今度はぽんぽんと労わるように軽く叩く。
そして、満面の笑顔。

 

「俺、お前のそういうトコが好きなんだよなぁ〜」

 

顔を真っ赤にさせて口を開け閉めしている司馬懿を余所に、夏侯淵は背中を向けて
さっさと歩き出した。
「………っ、こ、子供みたいに扱いおって!!」
照れ隠しにそう毒づいて、司馬懿はその後を追いかけていった。

 

 

 

 

<続>

 

 

ツジツマ合わせは難しい。(汗)