<道標・それから>
どれぐらい眠ったか、もう解らない。
重たい瞼をこじ開けるようにして目を開く。
ぼんやりした頭でそうしていると、声がかかった。
「気が付かれたか、司馬懿殿」
「………!?」
寝台の横に置いた椅子にのんびりと腰掛けて書物に目を通していたのは、
十日ほど前には寝たきりの状態だった張遼であった。
「張遼……殿? どうして……」
寝たきりを余儀なくされた筈の男が、どうして此処に居るのだろうか。
見回せば、此処は紛れも無く自分の部屋である。
「動いて……良いのか?」
「許可は取った」
「………そうか、それなら良い」
「それにしても、」
読んでいたものを傍の机に放り投げて、張遼が司馬懿に向き直った。
「貴殿らしくもない無茶をされたな」
「さすがにもう、死ぬかとは思ったが……、
まぁ、こうして生きている」
ずきりと掌に痛みを感じて両手を上に伸ばす。
両手とも、白い包帯が巻かれていた。
それを鬱陶しそうに見遣って、司馬懿がため息を吐く。
「これでは、当分使い物になりそうにないな…」
「全く……怪我人がこれで3人だと、殿が嘆いていた」
「3人?」
今目の前にいる張遼と、それから自分と、まだ誰か居るのだろうか。
「他にも居るのか?」
「夏侯淵殿がな、まぁ、彼が一番軽傷だから、すぐに良くなると思うが…」
「他は?」
「見事に誰も、掠り傷ひとつ無い。
小部隊で突発的な事とはいえ、蜀軍相手にそれで済んだのが不思議だな」
「………そうか」
ほっとひとつ吐息を零して、司馬懿が改めて張遼に視線を送った。
「そうだ、張遼殿」
「何か?」
「貴方が私に言った事………今は少し、解った気がする」
「………」
「少々、思慮に欠けていたようだ。すまなかった」
「これはこれは……」
まさかあの司馬懿に謝られるとは全く思ってもいなかったのか、
意外そうに片眉を上げて、張遼が驚きを顕にする。
それに居心地の悪そうに視線を逸らして、司馬懿が寝返りをうった。
「………それはそうと、」
司馬懿がふと、何か思い出したように張遼に声をかけようとして、
だが、その言葉は廊下の向こうから聞こえてくる荒々しい足音に遮られた。
誰かが廊下を走っている。それはもう猛烈な勢いで。
何事かと、思わず張遼と司馬懿の2人が閉められた扉の向こうを見守る。
その扉が勢い良く開かれた。
「文遠っ!!貴様!!!」
その主は、隻眼の猛将。
それにあからさまに顔を顰めて、張遼がぽつりと呟いた。
「げ……元譲………!?」
「何を勝手に寝台を抜け出してる!!
お前はまだ絶対安静なんだろうがっ!!」
無遠慮に部屋の中へ入ると、夏侯惇が張遼の腕を強く掴んだ。
「ほら、とっとと部屋に戻るんだ!!」
「わ、解った、解ったから、痛い痛い!!」
ぎゃあぎゃあと言い合う2人を見遣って、司馬懿が重く息を吐いた。
許可を取ったというのは偽りか。
確かに、そんなにすぐに動けるようになる筈もないだろう、あの傷で。
部屋を出る前に、夏侯惇がぎろりと司馬懿を振り返った。
「ちなみに、お前も暫くは絶対安静だからな。
淵が見張ってないからといって勝手に動くなよ」
肩越しに張遼が振り向いて目元で笑ってみせる。
それを追い払うかのように、司馬懿が軽く手を振った。
扉が閉められて、静寂が訪れる。
今一度、夏侯惇の視線と言葉を思い出して。
「………おお、怖い」
布団を被り直して、司馬懿が小さく苦笑を浮かべた。
「ですからね、司馬懿殿」
また煩い奴が来たものだと、内心ため息を吐く。
職務を終えた張コウがやってきたのだ。
「孫権殿がまだ頑張ってくれてますけど、やっぱり貴方の仕事量は
文官達には酷ですよ」
「仕方なかろう。
せめて筆でも持てるぐらいにはならんと、そもそも仕事にならん」
「そりゃあ、そうですけどね。
孫権殿が不憫でしょうがないですよ」
「………張コウ殿、」
ずっとずっと気になっていたこと、それを司馬懿が口にした。
「もしかして……孫権殿の記憶は、」
それに驚いたような表情を見せて、張コウが少し声を低くした。
「これは驚きましたね、知っていたのですか?」
「あくまで推測の範囲内だ。
彼があの張飛を退かせる事に成功した。
その理由を考えれば、そこにしか行き着かん」
「さすがですね」
にこりと笑みを浮かべて、張コウが椅子に腰掛けた。
木の軋む音をさせて、背凭れに体を預ける。
以前聞いた孫権と甘寧の会話を司馬懿に話して聞かせると、困ったように
張コウは肩を竦めた。
「ですが、彼はまだ我々が気付いていないと思っているようですから」
「………そうか」
「どうするのですか?」
「いや、奴に何もする気がなければ、別に何もする必要は無い」
「……おや、魏国の軍師がそんな事で良いのですか?」
「まぁ……奴にはいくつか借りがあるからな。
別に、貴様が上に告げ口でもして、捕らえてしまうのなら話は別だが」
「心外ですね」
告げ口だなんて、美しくも無い。
眉間に皺を寄せてそう呟く張コウに、司馬懿が口元だけで笑みを浮かべる。
張コウは、そういう男だ。
割と誰に対しても関心は薄い。
たった一人の男を除いて。
孫権が牢に入れられようが、裏切りを見せようが、恐らく彼を動揺させるものには
成り得ないだろう。
そういう、男なのだ。
どんな結果になろうと、「ああ、やっぱりね」の一言で終わってしまうだろう。
「貴様は淡白だな」
「貴方に言われたくありませんよ」
「とにかく、この件は当分、口外無用だ」
「はいはい、解りましたよ軍師殿」
仕方なさそうに手を振りながらそう言って、張コウが椅子から立ち上がった。
「まぁ、もうすぐ冬ですし、春になるまで戦も無くなるでしょう。
その間にしっかり治して下さいね。
恐らく、その頃には張遼殿も動けるようになっていると思いますし」
「解っている」
「いいえ、貴方は解ってませんよ、まだ」
思いがけない張コウの言葉に、怪訝そうに司馬懿が視線を送る。
どういう意味だと問う前に僅かに怒気を孕んだ声音で張コウが言った。
「こんな事、二度と許しませんからね」
そう言うと、他には何も言う事無く張コウは踵を返して部屋を出て行った。
閉められた扉は少々荒々しい。
それに肩を竦めると、司馬懿が喉の奥でくつくつと笑いを零した。
とても、愉快そうに。
それから、沢山の者がやって来た。
張遼を部屋に押し込んでから、改めて夏侯惇が見舞いにやってきた。
曹操も訪れて、穏やかな笑みを浮かべながらも散々嫌味を言って帰っていった。
訪れた典韋が、「手ぶらで済まねぇな」と言って頭を下げた。
一緒に来た許チョは籠に入れた果物を持ってきたが、やはり自分が食べたいのか
物欲しそうに見ているのを、典韋に引き摺られながら出て行った。
徐晃がやってきて、心配そうに体調を訊ねてきながらも、しっかりと説教を零して帰っていった。
甘寧と一緒にやってきた孫権は、司馬懿の姿を見るや否や、飛びついて泣き出した。
それを宥めながら、司馬懿と甘寧が顔を見合わせて苦笑を浮かべた。
自分の周りには、こんなにも沢山の仲間が居る。
とても、とても幸せな事だ。
それから数日が過ぎ、退屈を持て余していた司馬懿が書物に目を通していると、
遠慮がちに扉が叩かれた。
返事をする前に扉が開いて、申し訳無さそうな表情で夏侯淵が顔を覗かせる。
「俺がへたばっている間にすっかり出遅れちまったみてぇだな。
生きてるか、仲達?」
読んでいた物を傍に置いて、司馬懿が笑みを浮かべる。
とても、とても幸せな。
「ああ、残念だがこうして生き長らえている。
貴方のせいでな、妙才殿」
それは、とても。
とても幸せな。
<続>
はい、道標の淵司馬編はこれにて終了です。
発展途上な2人が理想ですが、それはそれとして発展途上なりの結末を
書いてみました。
ここまで読み進められた皆さんが、しっくりきて下さるような、そんな結末なら嬉しいです。
淵司馬はもうひとつヤマ場があるのですが、それはもっともっとずっと後半の話です。
次は一気に話が飛びまして、合肥戦に入ります。
孫権と甘寧が魏軍にいる状態での合肥戦です。
史実ともゲームとも違う展開をお楽しみ頂ければと(^^)
冬の間の話は、思いつけば50のお題あたりでサイドストーリーっぽく書きます〜。