<道標・本当のこと>

 

 

 

 

人間は窮地に陥ったその時に、本音を漏らしてしまう。
自分自身ですら自覚していなかった、心の底にあったものを。
まだ己は、夏侯淵を信用していない。
あれだけ行動を共にして、一番近くに在って、それでもなお。
この自分の頑なさには正直呆れてしまう。

 

司馬懿には、此処から飛び降りる事ができなかった。

 

「……妙才殿、もう、良いのだ……」
ぽつりと声を漏らす。
やられた喉でそれはとても小さなものとなり、とてもではないが夏侯淵に
届くはずも無くて。
それでも司馬懿は、言葉を発した。
「軍師というこの役は、私には随分重荷だったようだ。
 もう……これ以上、此処に居るのは嫌なんだ……」
初めて漏れた本音、だが、これは誰にも届くことはない言葉。
だから言えたのだといっても過言では無い。
「この役目は、私が私でなくなるような気がする。
 それが、私には辛い。もう……良いだろう……?」
下では両手を伸ばしたままで、夏侯淵が真っ直ぐ自分を見ている。
飛び散る火の粉がその顔を照らす。
この距離では、炎の熱さで留まっているだけでも辛いだろう。
それでも夏侯淵は、自分が行くのを待っている。
彼にここまでする理由はあるのか。
そもそもどうして、彼は自分を助けに来たのか。
自分はまだ、必要とされているのか。
それとも必要なのは、自分自身ではないのだろうか。
勝利を得るために必要なのは、己の才だけだ。
知恵を振り絞り敵を欺き勝利を得る、ただ、それだけの。
司馬懿が頑なになる理由は、怖くて訊けない事は、この一つだけ。

 

己か、才か。

 

「早くしねぇと、もう崩れるぞ。
 時間が無いんだ、仲達」
夏侯淵の声が聞こえる。
こうして自分を助けるのは、この脳漿がまだ必要だからなのか。
「なぁ、」
再度促す夏侯淵に向かって、届かない言葉を紡ぐ。
「………妙才殿。
 本当に必要なのは、何だ?
 私か?それとも……策を練るこの、頭か?」
答えが得られるとは思ってない。
聞こえるなんて思っていない。
ただそう……訊きたかっただけだ。
「早く降りて来いっての、ひょっとして怖いのか!?」
そんなわけあるか。
やはり届いてはいないのだろう、見当違いも甚だしいこの言葉に胸の内で
そう言い返して、司馬懿が吐息を零した。
ぐらりと、また邸が揺らいだ。
今度は大きい。
縁を掴んで揺れに耐えると、崩れるまでには至らなかったのか少し収まる。
「なぁ、仲達」
押し殺したような声が聞こえて、司馬懿が下に目を向ける。
炎に照らされていても解る程、彼の表情は蒼白そのものだった。
きっと、もう後が無いのを解っているのだろう。
司馬懿には、この男がそこまで自分に執着する理由が解らなかった。
確かに彼とは良い友好関係を築けていたと思う。
だが、それだけだ。
こんな事態なのだ、己の命を優先して当然だろう。
今、この邸が崩れてしまっては、恐らく夏侯淵自体も危うい。
「なぁ仲達、降りてきちゃくれねぇか?
 俺は……」
両手を司馬懿に差し伸べて、青ざめた顔のままで、それでも彼は笑ってみせた。
笑って彼は、言った。

 

 

「俺は、お前の居ない未来に興味が無ぇんだ」

 

 

酷く驚いた表情をして、司馬懿が夏侯淵を見下ろす。
まだ、その体は微動だにしない。
夏侯淵が続けた。
「どうせ勝つなら皆で勝とうぜ。
 勿論お前も一緒にだ、仲達。
 いつか来る平和な世に、お前が居なきゃつまんねぇよ。
 絶対に助けるから。絶対だ」
いつか来る、平和な世に……己はまだ必要とされるのか。
縁を掴む手が、震える。
「信じて、良いのか……?」
掠れた声でか細く司馬懿が声を漏らす。
煙の毒は身体中を這い回り、もう殆ど視界も思考も働いてはいなかった。
それでも彼の声だけは、ちゃんと聞こえる。
まだ、そこに居る。

 

「信じて良いんだ、仲達」

 

縁から身を乗り出し地を見下ろすと、くらりと頭が揺らいだ。
「妙才、殿」
見える筈の距離、だが司馬懿には夏侯淵の姿を捉える事ができなかった。
何となくおぼろげな輪郭で、位置だけは特定できる。
「生きるぞ、仲達。
 来い!!」
「あぁ………そうだな……」
彼が居るなら、もう少し。
もう『飛び降りる』力すらないけれど。
彼の腕ひとつで生かされるというのであれば、それも、また。
「私の命……妙才殿にくれてやる。
 好きにすると良い……」
するりと縁から手が離れる。
全身が前に傾くと同時に、浮遊感が身を纏う。
もう、後の事は司馬懿にとってどうでも良かった。

生きる事も、死ぬ事も。

 

 

 

 

『俺は、お前の居ない未来に興味が無ぇんだ』

一度は捨てた命だ。
運良く命が在ったならば、彼と共に生きてみるのも良いだろうか。

 

 

 

 

狙いを定めて、落ちてきた司馬懿を受け止めるまでは良かった。
だが、高いところからの落下物は加速の力も加わり、通常よりも重さが随分と増す。
それに加えて意識を失い力を無くした体、その衝撃は夏侯淵が思っていたよりも
かなり強かった。
上手く受け止めたがそのまま後ろにひっくり返って、したたか後頭部を打ち付ける。
余りの痛さにもんどり打って悶えて、半分涙目になりながら夏侯淵がその身の
上体を起こした。
腕にはしっかりと、司馬懿の体がある。
気を失ってはいるが、それでも確かな鼓動は残っていた。
「……間に合った、か……」
ホッと出来たのはほんのひとときだけだった。
みしりと鈍い音がして、邸が少しずつ傾き始めたのだ。
今2人の居る方向へと。
「おいおい、冗談じゃねぇぞ……?」
この場所に居ては間違いなく崩れた邸の下敷きになってしまう。
「くそ、何だってこんな都合良くこっちに倒れるんだ!?」
もうすぐ崩れようとするまさにそんな時に、司馬懿がずっと屋根の端に居座っていて
重心が偏っていたからだなどとは、もはや考えるだけ無駄だろう。
「とにかく逃げねぇと……!!」
司馬懿を抱き上げようとして……腰に鋭い痛みが走る。
「……いて…!!」
思わず腰に右手を当て、反対の手を地につけて体を支える。
受け止めた時に捻ったのだろうか。
立ち上がろうとして、夏侯淵が痛みに顔を顰める。
「参ったな……」
夏侯淵自身が、己の力だけで動く事のできない状態だった。
「せっかく、助けられたってぇのに……」
このままでは2人、此処で心中だ。
ずるりと体を地に這わせて、夏侯淵は司馬懿に近付いた。
意識を失った彼の目が覚める気配は感じられない。

 

めき、と邸の柱が折れる音を聞いた。

 

いよいよ観念して、夏侯淵が強く瞼を閉じる。
だが、そこへ。
「全く!!何をしているんですか、貴方は!!」
横に人が現れた気配を感じ、夏侯淵が目を開いて隣へ視線を向けた。
張コウが、司馬懿を抱き上げながら街道脇に止めてある馬を顎で指した。
表情に焦りが見え隠れしているのは、決して見間違いではないだろう。
「早く、崩れますよ!!急いで!!」
「え……張コウ?」
「ああもう、ツメの甘いオッサンだなぁ!!
 ほら、反対側支えろ、孫権」
「ああ」
「……お前らまで、」
張コウも甘寧も孫権も、あの岩山を乗り越えて此処まで来たのか。
司馬懿と……自分の為に。
「さ、あそこまで走りますよ。
 大丈夫ですね、夏侯淵殿?」
両側から2人に支えられて何とか立ち上がると、夏侯淵が頷いた。
それを合図に一斉に街道へ向けて走り出す。
みしみしと柱の折れていく音が続き、支えを無くした家屋が全壊したのは
その直後の事であった。

 

火の粉が舞い、橙の光を撒き散らす。

 

馬の傍でそれを見遣って、張コウが安堵の吐息を漏らした。
「何とか間に合って良かった……」
「お前ら、どうして……」
「なかなか戻ってこないオッサンと軍師サンが、心配で心配でしょうがねぇって
 煩いのが一人居たからな」
「か、甘寧……、余計な事を……!!」
「まぁ、結果的には来て良かったですよ。
 もう少し遅かったら、燃え尽きて炭になった貴方がたを見る羽目になる
 ところでしたからね」
ふふ、と笑みを零して張コウが司馬懿の様子を見る。
気を失っているのは煙と炎で体力を消耗したせいだろう。
見れば火傷もあちこちに見られる。
手のひらの皮は剥けて血が滲み出していた。
「これは、早く帰って医師に見せた方が良いですね。
 しかしまぁ、司馬懿殿も随分と無茶な事を……。
 こういう事は軍師の役目じゃないでしょうに」
「………あぁ、そっか。そういう事か」
張コウの言葉に、夏侯淵が漸く理解できたとばかりに手を打った。
それに不思議そうに見返す3人。
司馬懿の頬にこびり付いた煤をそっと手で払ってやりながら、夏侯淵が笑った。
「こいつ、きっと軍師で居るのが嫌だったんだなぁ」
「………は?
 だって、司馬懿殿……」
「本人から聞いたわけじゃねぇから、多分……だけどな、
 こいつ、俺達の隣に並んでいたかったんだと思うんだ。
 陣の奥に引っ込んで誰かに守られてるとかじゃなくて、
 誰かを守って助けてやれるような、そんな位置に居たかったんだと思うんだ。
 だから…多分、張遼が羨ましかったんだ。
 すぐ近くに居て、命懸けで仲間を助けてやれた……張遼が羨ましかったんだ」
「けどよ、そんな事言ったって、軍師サンは軍師サンだろ。
 その立場っつうのは、そんな簡単に変えられるモンじゃねぇし」
呆れたような表情の張コウに、困ったように呟く甘寧。
孫権は、じっと夏侯淵を見ていた。
彼が、笑う。
「そりゃあな、軍師なモンは仕方ねぇだろう。
 誰かが解っててやれたら、それで良いんじゃねぇか?」
思わず張コウが吐息を零し、甘寧が苦笑を浮かべる。
だが、孫権は。

 

「ええ……そうですね。
 私も、そう思います」

 

満面の笑顔で、頷いた。

 

 

 

 

 

<続>

 

 

なんかすごいほのぼのしたまま引いてるんですが。(笑)
とりあえず、戦場での話はこれにて終了です。

司馬さんは頭がイイだけの普通の人間なのが理想です。
24歳ですし、そんなに大人びてる必要もないんじゃないかな〜…って。
趙雲とか孫権とか、あんなカンジなのにね。(苦笑)
ちょっとした事で嬉しくて、ちょっとした事で悔しくて、すぐに熱くなって、
多少、血気盛んなところがあったってイイと思うんですけどね。

……あくまでも、彼の性格の範囲内、ですが。

 

次はちょっぴり息抜きがてらに、ほのぼのとした話でも書きたいです。