<道標・武将と軍師>
岩石の反対側へと降り立って、夏侯淵が一度だけ吐息を漏らした。
疑うな。
不安になるな。
信じられなくなってしまったら、そこで終わりだ。
「……生きてるよな、」
こんなすれ違ったままで別れたくなんかなかった。
言いたいことは何ひとつとして伝えられていないのだから。
邸に目をやると、炎の勢いは先刻に比べてほんの少し弱まっているようだ。
代わりに煙の量が増している。
もう暫くもすれば、邸自体が崩れ落ちてしまうだろう。
仮にまだ生きていたとしても…崩れてしまっては、生存の可能性は無くなってしまう。
急がなければ。
「これが天の助けってやつか…」
すぐ近くの叢で、未だこの場から離れず呑気に草を食んでいる馬が数頭。
好機を得たとばかりにその内の一頭に跨ると、夏侯淵は鞭を入れた。
「もうひとふんばりだ、精一杯駆けてくれよ……!!」
努めて軽く振舞ってはいたが、もう一刻の猶予も無いのだ。
邸を支える柱が軋む音を聞いた。
爆ぜる音の中で、少しずつ邸がその体を支えきれなくなってきている。
恐らくどう足掻いたところで、己の力ではこの窮地を脱する事は不可能だ。
覚悟が決まっていると冷静さを欠かないもので、逆に皆を無事に逃がせた事を
誇らしくさえ思っている。
「まぁ…後の事は………どうとでもなるだろう」
許チョ、典韋、徐晃。
彼ら以上の武を、未だかつて見たことは無い。
そしてそれはこれから先も、揺ぎ無いものなのだと信じて良い。
夏侯淵、張コウ。
この2人の機動力には目を見張るものがある。
きっとこれからも、戦場を駆け巡り武器を振るうだろう。
誰よりも、疾く。
張遼。
一番万能で、恐らくは一番有能な男。
きっとどんな事態にも柔軟に対応できる筈だ。
夏侯惇。
あの傍若無人な君主の面倒を見れる、ただ一人の男。
恐らくこの男が居なければ、この国の未来は無いだろう。
そして、曹操。
彼の覇道は、これからも続くだろう。
これだけの力があるのだ、きっとそれは、挫かれる事は無い。
『自分の命の使い道ぐらい、自分で決める。』
そう自分に言ったのは、張遼だった。
今ならそれを少し理解できる気がする。
最後まで戦い死んでいった者達は、己でその道を選んだのだ。
ここから先には死しか無いと解っていて、自分で選んだのだ。
自分もそうだ。
彼らを逃がす為に、この道を選んだ。
命を賭けても惜しくないと、そう思ったから。
だから己の胸に後悔は無い。
つまりは……そういう事だ。
「私はこれを、不運だとも無様とも思わんな……」
こんな事にならなければ、きっと一生自分には理解できない事だった。
彼の言葉に感謝すべきだろう。
張遼はそれをちゃんと解っていたから、自分を慰める為にそう言ったのだ。
弩を弄っていた手を止め、もう一度目を街道へと向けた。
街道はもう、静寂が漂っている。
蜀軍は皆、去っていったようだ。
それを確認すると、司馬懿が力無く屋根の上に座り込む。
手にあった弩を、力を振り絞って屋根の向こうへと放り投げた。
もう必要の無い物だ。
煙の毒で肺が悲鳴を上げ始める。
炎の熱さで、意識が朦朧としていた。
過去を思い出す。
己の目で確かめる事も無く、耳にした曹操の評判だけで評価して
頑なに勧誘を拒んでいた。
半ば脅されるようにして仕官したものの、いつも一人孤独を持て余して。
だけどそれは、自分が目隠しをしていただけだ。
必要なのは己の才だけで、自分の存在自体は特に必要ともされていないのだと、
頑なな拒絶と蔑みだけを己の中に、仲間の本質を見ようともしなかっただけだと。
あんなにも、温かかったのに。
最初に気付かせてくれたのは、夏侯淵だった。
視界が霞むのは、恐らく煙の所為だけでは無いだろう。
「妙才殿……」
結局自分には、何も言えないままだった。
勇気が出なくて訊ねられなかった事もあった。
言いたい事も訊きたい事も、沢山あった。
救ってくれた彼に『ありがとう』の一言すら言えないままで。
思い出してしまうと、願わずにはいられなかった。
もう一度、顔が見たいと。
誰かの声が聞こえる気がする。
とても、聞き慣れた声音が。
弾かれたように司馬懿が顔を上げた。
「妙才殿…!? 馬鹿な……!!」
「仲達っ、そこに居るのかっ!?
返事しろ、仲達っ!!」
やはり、下で自分を呼んでいるのは夏侯淵だ。間違いない。
力を失い重くなった体を何とか動かして、司馬懿が屋根の縁へと近づく。
ぐらり、と邸そのものが揺らぐ感覚に、慌てて縁に掴まった。
炎で焼かれた瓦の熱が、手に焼きつく。
「ば、馬鹿、動くんじゃねぇ!!崩れるぞ!!」
「じっとしていても、どうせじきに崩れるものだ。
………そんな事より何しに来た」
煙にやられた喉が痛む。
瓦の熱で掌の皮膚が焼ける。
だが、そんな事なんかより。
「此処は危険だ。早く逃げぬか!!」
「馬鹿野郎!お前を迎えに来たんだ俺は!!」
邸に近寄れるぎりぎりの所まで近付いて、夏侯淵はそう声を上げた。
それに一瞬不思議そうに眉を顰めて司馬懿が問う。
「もう、ここからは降りられぬわ。
この炎を見て解らんのか!?」
「だったら、そこから飛び降りれば良い!!
俺が、ちゃんと受け止めてやるから!!」
「…………な、何を……っ」
反論しようとして、司馬懿が大きく咽る。
何とか落ち着かせて、言いかけた言葉を言い直そうとして、
「…………ぁ」
声が出ない事に気が付いた。
夏侯淵と言葉を交わしている内に、煙を吸い過ぎたのだろう。
歯を食いしばって、司馬懿が夏侯淵を見下ろした。
2階建ての邸の屋根、決して高くないとは言えないが、そうしようと思えばできただろう。
だが、こんな体になってまともに着地ができるとは思えない。
受け身がとれるかどうかすら怪しいものだ。
打ち所が悪ければそのまま命を落としてしまうだろう。
どのみち助かる道では無いのなら、このまま邸と共に燃え尽きる方が
良いかと思って此処に居た。
今なら……どうだ?
自分を見たまま返事をしない司馬懿に、夏侯淵は両手を伸ばす。
そして、もう一度言った。
「大丈夫だ、絶対受け止めてやるから!!
俺を信じろって!!なぁ!!」
それをじっと見つめ、司馬懿がゆるりと。
首を、横へと振った。
<続>
今回の戦いは、とりあえず次で片付きます。
司馬懿の中でひとつの答えが生まれる瞬間です。
……なんて書いたらすんごく聞こえはイイよね?ね??(馬鹿)
はぁ……徐晃が出てこなくて寂しい〜。
自分で言ってちゃアレなんですがね。
まぁ正直な話、この戦いは淵司馬コンビのためのものなので。(苦笑)