<道標・背水>

 

 

 

 

おかしい。
何か違和感がする。
「…………ム、」
確実に縮まっている距離に、逆に不信感が募る。
これは気のせい、なのだろうか……。
「どうしました、魏延殿?」
隣で同じように馬を走らせながら姜維が不思議そうに自分を見てくる。
だが、この妙な胸騒ぎを上手く表現する言葉が見つからなくて。
「…………イヤ」
結局、無かった事にしてしまった。
もうすぐ自分達の追う男が谷間に突入する。
一応辺りを見回してみたが、自分達以外の気配は見当たらない。
ふと急に視界が翳って、谷間の入り口に突入した事に気がついた。
急に、前を走る男がくるりと反転する。
それに意気込んだ姜維が槍を構えた。
「観念されたか、張コウ殿!?」
「………その言葉、そっくりお返ししますよ」
見せる勝気な笑みにいきり立った姜維が馬を走らせる。
逆に魏延は動けないでいた。
嫌な、予感がして。
この場所は、いけない。
本能がそう語った、瞬間。

 

「潰れちまえ!!」

 

誰かの声と共に、崖の上から大量の岩が落下してきた。
この位置は間違いなく姜維に直撃するだろう。
悟ったと同時に魏延も馬に鞭を入れた。
落石よりも、速く。
「伯約…ッ、下ガレ!!」
「ぅわっ!?」
後ろから襟首を捕まれたかと思うと、馬から引き摺り下ろすように
物凄い力で引っ張られた。
魏延も手綱から手を離して、姜維を掴まえたまま馬から飛び降りる。
大地を踏みしめて足に力を篭め、もう一歩後ろへ。
姜維の足首を落石が打つ。
体勢が整わず、そのまま岩に飲み込まれてしまうかと姜維が覚悟した瞬間、
胴に腕が回されて、力強く引かれた。
すぐ目の前に大量の岩が落とされ、その土煙に固く瞳を閉ざす。
静寂は、一瞬だった。
恐る恐る目を開けると、目の前には高く積み上がった岩石の山。
それは街道の端から端まで全てを飲み込み、これ以上の追撃を塞き止めた。
よじ登りでもしなければ、これは越えられないだろう。
そこまでして追おうという気力など、すっかり消え失せていた。
力なく身体を後ろに倒すと、魏延の肩口に凭れるようにして姜維は苦笑を浮かべた。
「やられましたね」
「………アア、」
「まぁ、まだ機会はありますから、急く事も無いでしょう」
「退クカ?」
「ええ、それが良いようですね」
魏延に手を引かれて立ち上がると、姜維がぺこりと頭を下げた。
「助けて下さってありがとうございます。
 ちょっと死ぬところでした」
「………イヤ、」
短く呟くようにそう答える。
少し考えるようにしてから、もう一言。
「無事デ………良カッタ」
その言葉に、姜維が嬉しそうに頷いた。

 

 

 

 

 

 

土煙が舞い上がり瞳を閉じてそれを避け、驚き嘶く馬を静めながら
張コウが舌打ちを漏らした。
「………外しましたか。まぁ、良いでしょう」
撒けたのだから、それで充分だ。
「張コウ殿!!」
馬を置いた孫権が駆け寄ってくる。
その後ろには夏侯淵も居る。
「敵さんは皆退いてったぜ!!」
崖を滑り降りながらそう言うのは甘寧。
それにぐるりと辺りを見回し、訝しげに張コウが眉を顰めた。

 

「…………司馬懿殿は、何処です?」

 

それに甘寧と夏侯淵が首を傾げて答える。
「いや、見てねぇよ俺は」
「一緒じゃなかったのか!?」
「私は知りませんよ」
一気に血の気が引いたのは、孫権。
「まさか………」
彼は、足止めに回ると言っていた。
岩石の向こうで、未だに黒煙を上げ続けているのは邸だろうか。
そしてまさか、司馬懿はまだ、あの場所に。
「まさか、まだあそこに……!?」
「有り得ますね」
「でも、私が出てきた時には、もう火の手が……」
「そんな事で動じる方じゃありませんよ」
強く拳を握り締めて俯く孫権の足元に、小石がひとつ転がり落ちてきた。
ゆるりとした動作で見上げると、岩石をよじ登りその向こうへ渡ろうとする夏侯淵の姿。
「夏侯淵殿!?」
「俺、ちょっと迎えに行ってくるわ」
孫権の声に軽く答えて、夏侯淵は岩石に足をかけた。
「気をつけて下さいね夏侯淵殿。
 まだその辺りに蜀兵が潜んでいるかもしれませんから」
「此処は頼んだぜ、張コウ」
「………待ってますよ」
その言葉に頷いて、夏侯淵は反対側へと降り立った。
遠ざかる気配に孫権が力無くその場に膝をつく。
あの時、やはり引き摺ってでも連れ出せば良かったのだろうか。
身体を支える手足が、小刻みに震えていた。
もし…間に合わなくて司馬懿が死んでしまったら、自分の責任だ。
「どうして……」
ぽたりと孫権の瞳から雫がひとつ零れ出る。
「……司馬懿殿は、言って下さったんですよ?
 必ず、皆を生還させると……」
「あの方の場合、『皆』という言葉に自分は含まれていないのですよ」
「だからって、こんな……」
「大丈夫ですよ」
そっと孫権の肩に手を置いて、張コウが笑みを浮かべる。
「悪運がかなり強い方ですからね、きっと生きてる筈です。
 大丈夫です……助けられますよ」
自分の知るあの男は、そんな簡単にくたばるような人間ではない。
きっと、夏侯淵と一緒に戻って来る。

 

………そうでしょう? 司馬懿殿。

 

人為的な岩石の山を見上げて、張コウが不安気に目を細めた。

 

 

 

 

 

 

矢が尽きて打つものを無くした弩を手持ち無沙汰に弄りながら、
司馬懿はただじっと辺りの様子を見守っていた。
屋根に上がった時に、張コウ軍の姿も遠くで捉える事ができた。
何の事は無い、敵を引きつけて逃げ回っていただけだった。
夏侯淵の軍が谷間に入り、続いて孫権の軍が、最後に張コウの軍が。
それを追って蜀軍が谷間に突入し、甘寧の落とす落石を見た。
その後に散り散りになって去る兵士を目にして、策が成った事を知った。
上手くやったのだろう、あの新入りは。
「………やるな、」
薄く笑みを浮かべて、それから今一度己の周囲を見回した。
炎の熱さに耐え切れず、屋根から落下していった者が3人。
そして、煙にやられて命を落とした者が2人。
それでも傍で倒れている男には、まだ少し息があった。
「おい、生きているか?
 仲間達は皆、無事に逃げ延びた。
 お前達の力だ……よくやってくれた」
だが、意識も朦朧としているであろう兵士の口からは、
「将軍様……も、早く……お逃げ、下さ…い………」
未だに、自分の身を心配する言葉が漏れ続けている。
「心配するな。
 お前を看取ったらすぐに此処を降りる」
「………生き……て………」
強く握られた手から力が無くなり、兵士が絶命した事を知った。
その身をそっと横たえてやって、司馬懿がゆっくりと立ち上がった。
炎は邸を包み込み、崩れるのが先か炎が此処まで届くのが先か。
立ち上る黒煙が、少しずつ肺を侵食していくのが解る。
だが、そんな事には一切構わず満足そうに頷いて、司馬懿が微笑む。
「………皆が無事であれば、それで良い」

 

逃げ道など、とうに失っていた。

 

 

 

 

<続>

 

 

 

司馬懿の運命や如何に!?

 

……な〜んてね、フフ…。(わぁ懐かしいネタだ)

 

 

なんか、このシリーズの司馬さんって、どこか生き急いでいるフシがありますねぇ…。
彼にはしぶとくしつこく生き続けてもらわにゃならんのに……。
やっぱり無双の司馬さんの顔色が悪いせいか……?(違います)