<道標・逃げる>

 

 

 

 

どうすれば良いのか解らなくて、とりあえず孫権は布団から身を起こした。
そして廊下に出て、辺りを見回す。
その向こうには庭が広がっているが、それも見覚えのない空間に変わっていた。
背中を、ぞくりとしたものが駆ける。
解らないという事が、恐怖となって圧し掛かってくる。
じり、と見えない何かに対して一歩後退りした瞬間。
「あ〜、権ちゃん!!」
後ろから、明るい少女の声が聞こえてきて、慌てて孫権は振り返った。
髪をひとつに括った、まだ少女の面影が残る女性が立っていて、
孫権が小さく息を呑む。

 

また、『知らないもの』が、出てきた…。

 

「権ちゃん、倒れたって聞いたから、お見舞いに来たの。
 だいじょうぶ?」
「あ、あぁ……大丈夫、」
かろうじてそれだけ、返事をする事ができた。
「? 権ちゃん、どこか行くの?」
「……え…っと、その、………散歩」
我ながら苦しいかもしれないと思ったが、その思いとは裏腹に少女は
軽く相槌を打っただけであった。
「ふぅ〜ん…?」
「そ、それじゃあ…」
そんな少女にそう言って、孫権は廊下を歩いた。
このままこの場所に居てはいけないような、そんな気がしたから。
そんな後ろ姿を見遣って、少女は首を傾げる。
「……権ちゃん…?」
「どうした、小喬?」
不意に後ろから声掛けられて、驚いた少女が半ば飛び上がるようにして振り向いた。
「わっ、吃驚したっ!!
 ……孫策さま!?」
「おう小喬、そんな所でボーっと突っ立っててさ。
 公謹が捜してたぞ?」
「うん、あのね……」
一通り、先刻までのいきさつを孫策に話して聞かせ、小喬は少し不思議そうにして
首を傾げると、周瑜が呼んでいた事もありその場を立ち去った。
一人残された孫策が、訝しげに眉を顰めて腕組みをする。

 

何か、おかしい。

 

そう思っていたのは、先刻からだったが。
「……追った方が良いな」
そう呟くと、孫策は廊下を走り出した。

 

 

 

 

 

城門の前で、ただぼんやりと孫権は立ち尽くしていた。

 

ここは何処で、
あの人達は誰で、
自分は『何』なのか。

 

解らない事ばかりで激しく狼狽した。
「仲謀!!」
振り返ると、先刻目が覚めた時に傍に居た男が立っている。
何故かは解らないけれども、孫権は一歩後退った。
「仲謀、こんな所で何してるんだ?」
「あ、あの…」
何か言おうとするのだけれど、言葉が上手く紡げない。
だが、確かに感じるのは強い強い恐怖感。
傍に居てはいけないと、頭のどこかで警笛が鳴っている。
「さぁ仲謀、戻ろう」
そう言って伸ばされた手を、反射的に孫権は払いのけた。
「……仲謀?」
「あ……」
もう一歩、孫権が後ろに下がる。そして。
「ご、ごめんなさいっ!!」
叫ぶようにそうとだけ言うと、踵を返して走り出した。
払いのけられた手を押さえて孫策が呆然とその背中を見送る。
暫くしてから我に返った孫策が慌てて後を追ったが、孫権の姿はもう
何処にも見えなくなっていた。

 

 

 

 

 

何処をどう走ったのかは覚えていない。
荒い息を吐きながら孫権が足を止めたのは、広大な河の前であった。
逃げ出してしまった、あの場所から。
きっと自分に関係のある場所に違いないのに、自分の思惑とは違う部分で
あの場所を全身で拒絶している自分が居た。
それが何故なのかは、当然解りはしない。
そんな自分に苛立ちは隠せなかったが、今はそれどころではなくて。
河縁に近付き、辺りを見回す。
恐らく釣り用なのだろう、一隻の小舟が泊められている。
それに近付くと中に乗り込み、孫権は息を潜めた。
追って来るかもしれない。連れ戻されるかもしれない。
そう考えると恐怖で身が竦んだ。

 

どうか、どうか追ってこないで。

小舟に身を凭れかけさせて、孫権は祈るように目を閉じた。

 

そのまま意識を失うように眠った孫権は、小舟の小さな揺れに気付かなかった。
繋げていた縄が緩み、滑るように小舟は長江を走り出した。
まるで、孫権のその願いを叶えるかのように。

 

 

 

 

<続>

 

 

とりあえず、ここまでが序章といいますか。

次からやっと本題に入れます。

 

…孫策とか甘寧とか、もうちょっとたくさん書きたかったケド、

いまはちょっとだけ我慢がまん。