<道標・張飛vs孫権>

 

 

 

 

孫権を卓の傍まで呼び寄せると、地図を広げて司馬懿は一点を指した。
「下で待機している兵と共に、孫権殿は夏侯淵殿の軍をここまで誘導してもらいたい」
それは、今目の前にある街道を更にもう二里程度遡ったところにある、谷間。
孫権が窓辺に近付いて視線を遠く街道の延びる先へと向けた。
確かに、地図通りにそこには細く狭まった谷間が見える。
司馬懿を振り返り、孫権が困ったような声を上げた。
「それは……構いませんが………。
 一体、そこまで行って何を!?」
「先に私が言った事を覚えているな?」
「………此度の戦いは、撤退も予測して動くようにとの事ですか?」
「その通りだ。
 この場所に私は最後の保険を賭けた。
 一か八かの賭けになるが……私はそれに賭けたい」
「そこに何があるのですか?」
「その場所で、甘寧殿が待機している」
「………何……ですって……?」
驚きを顕にして、孫権が司馬懿を見遣った。
相変わらずの表情で、司馬懿が谷間を指差す。
「その後の策は全て甘寧殿に授けてある。
 とにかく今は、早くそこまで辿り着く事だ。
 それを貴方に任せる。さぁ、早く!!」
「で、でも………」
「早くしなければ、煙に巻かれて此処から出る事すら叶わぬぞ!?」
強い口調で訴えられ、孫権が唇を噛んだ。
司馬懿の言いたい事は解る。
それを拒否するつもりは毛頭無い。
だが、気にかかる事が、まだ。

 

「司馬懿殿………貴方はどうなさるのですか!?」

 

孫権に背を向けて、司馬懿が冷静に答えた。
「私はまだ、やらねばならぬ事がある。
 できるだけ……できるだけ長く、奴等の足止めをしてやらねばな」
「ですが、このまま此処に居ては脱出が……!!」
「案ずるな、」
穏やかな声音が、妙に引っかかった。

 

「必ず全員、生き残らせる」

 

それは明らかな拒絶。
そして、揺るぎ無い決意。
自分が何を言っても、司馬懿は決して此処を動かないだろう。
そこまで解っているのに何も出来ない自分がもどかしい。
躊躇していると再び促されて、孫権がそれでも、と告げた。

 

「必ずですね!?」

「ああ……必ずだ」

 

その言葉に孫権が駆け出した。
煙が目に染みるがそれを堪え、階下に下りると動揺を見せる兵士を落ち着けて
外に飛び出した。
幸いな事に、馬は無事で居る。
それに跨ると、先程まで自分の居た場所を仰いだ。
司馬懿はどうするだろうか。
だが彼が何をしようとも、もう自分には出来る事は無い。
課せられた事を成し遂げる以外には。
「良いか、これより夏侯淵軍の援護に向かう。
 敵兵には構うな、自軍兵士の救出が最重要項目だ!!」
鞭を入れると、一声嘶いて馬は駆け出した。

 

 

 

孫権の軍が出発したのを見送ってから、司馬懿が未だ矢を放ち続ける
弩兵に向かって声をかけた。
「皆、ご苦労だった。
 ここから先は……命を捨てられる覚悟の有る者だけ残るが良い。
 己の命が惜しい者は、今すぐ此処を出ろ。
 今なら未だ、間に合う」
その言葉に弩を放り出し逃げ出したのが半分。
そして、それでも尚残ろうとする者が、半分。
それを満足そうに見遣って、司馬懿が笑った。

 

「矢はまだ残っているな?
 此処ももう危うい。皆、屋根の上へ上がれ」

まだ、命尽きるまで戦おうとする者が居るのだ。
ならば自分も奮い立たなくてどうするか。

 

司馬懿の言葉に残った者達が次々と屋根の上へと移って行く。
最後に司馬懿も続き、ちらりと視線を先刻孫権が出て行った扉へと向ける。
火の手はもう、目に見える所まで侵食していた。

 

 

 

 

 

 

張飛はいつも追い詰められると真ん中の兄の事を考えるようにしている。
別に比較をするわけではなく、ただ、兄ならこういう時にどう動くのだろうかと、
そんな風に思うのだ。
それは長年一緒に居ることで身についた、冷静さを失わない方法でもあった。

 

深追いはしない方が良いかもしれない。

だが、だがせめて、一太刀ぐらいは。

 

「……肩の傷の礼ぐらいはさせてもらわねぇとな……」
矛の柄を握り締めると、馬に鞭を入れて一気に加速させる。
「え、ちょ…本気かてめぇっ!?」
それに驚いたのは夏侯淵の方で、放った矢は張飛の腕を掠めるだけに留まった。
自分に向かって振り下ろされる矛を、慌てて手にした剣で受け止める。
「何て命知らずな奴だ!?」
「肝が据わってるって言ってくれや」
切っ先を弾くと夏侯淵が反転して、馬に鞭を入れる。
これは距離を稼いでどうと言っている場合では無さそうだ。
「頼む、もうちょっと頑張ってくれ……」
馬の背を軽く叩くと、一際高く嘶いた馬が渾身の力で走り始めた。
それにホッと息を漏らして、ちらりと背後を盗み見る。
案の定、張飛もまだ追ってくる。
何とか逃げ切りたいが、上手い方法が思いつかない。
困ったように眉を顰めて、夏侯淵が天を仰ぎ見た。
その時だった。
「夏侯淵殿!!」
名を呼ばれて、夏侯淵がその方に視線を向ける。
ちょうど孫権が兵を引き連れて来た所だった。
「孫権か……有り難ぇ」
勝機を得たとばかりに、夏侯淵が馬を反転させた。
「ケリつけてやるぜ!!」
剣を片手に張飛の間合いへと一気に詰め寄る。だが。
「待ってください!!」
その間へ割り込むように入った孫権に、夏侯淵が思わず怒声を上げた。
「邪魔する気か!?」
「いけません、今は撤退するのが先です!!」
「今だったら張飛のヤツを退けられるかもしれねぇんだぞ!?」
「逆に、やられてしまう可能性だって忘れてはなりません!!」
「けど……」
「全員で、無事に生き残りましょう」
漸く、孫権自身にも司馬懿が自分を此処へやった理由が掴めてきた。
火と火がぶつかりあえば、それは炎となって燃え上がる。
火を静めるには、水を投じなければならない。
その水は、自分だ。
しかも自分は恐らく……蜀側にとっての水でもある。
まずは夏侯淵を行かせるのが先だ。
「夏侯淵殿、このまま街道沿いに真っ直ぐ進んでください。
 あの谷間の向こう、そこで落ち合いましょう」
「……何だと?」
「司馬懿殿の秘策がまだ、有るのです」
「仲達が……!?
 ……ああ解ったよ、行けばいいんだろ、行けば!!」
半ば自棄になったように肩を竦めてそう言うと、夏侯淵は改めて馬を反転させた。
それに続くように兵士達が駆け出していく。
後には張飛と、その進軍を妨げるように佇む孫権の姿。
漸く張飛にも事態が飲み込めてきたようで、矛を握っていた腕をゆっくりと下ろした。
「…………孫権か。
 話には聞いていたが……本当に魏に居たんだな」
「私を知ってらっしゃいましたか」
「そりゃあまあ、な。
 兄者の嫁さんの兄貴となりゃあ、それなりに有名なもんだぜ」
「張飛殿…と仰いましたか。
 ここは兵を退けては頂けませんか?」
落ち着いた孫権の声音に、張飛が訝しげに眉を顰めた。
「そりゃあ……どういうこった?」
「ここから更に夏侯淵将軍を追う…という事であれば、
 此処で私が貴方のお相手をする事になります……ですが、」
間近で見ると、ぴりぴりした張飛の殺気が痛いぐらい己の身に突き刺さる。
だが、ここで弱気を見せてはならない。
ここで、怯んではならない。
自分の役目は、夏侯淵を逃がす事以外に、もう一つあるからだ。
「貴方がここで兵を退いて下さると言うのであれば、追う事は致しません。
 悪い条件では無いと……思うのですが?」
「……悪ィが、俺にはお前が俺を負かす事ができるとは、到底思えねぇんだが……。
 お前を倒して先に進むという選択肢も残ってると思わねぇか?」
困ったように張飛がそう答える。
張飛と孫権、顔を合わせるのは初めてではないが、言葉を交わすのは
これが初めてだった。
こんなに気迫有る男だっただろうか。
以前、会合の席で見たときの彼は、もっとどこか自信の無さそうな雰囲気で……
突つけば泣き出してしまいそうな、そんな姿にも見受けられたのだが。
今自分が斬られるかもしれない…そんな可能性を否定して、ただ毅然とそこに立って。
だがしかし、それもきっと何かのきっかけがあったのだろう、それだけの事。
目の前で孫権が、笑うように目を細めて告げた。

 

「今、私を斬らない方が賢明だと思いますよ。
 呉と蜀は同盟関係に有りますが……それも、尚香という一人の女での
 とても脆い繋がりでしかありません。
 貴方が私を斬った事を……妹が知ったらどうなると思いますか?」

 

言ってくれる。

張飛の頬を、一筋の汗が伝った。

 

 

 

 

<続>

 

 

何だかまるで孫権が悪役のような雰囲気ですな。(笑)

まぁ、たまにはこういう駆け引きだって必要ですから(^^)