<道標・理由>
司馬懿に託った竹簡を手に、孫権は裏庭を歩いていた。
この城はとても面白い構造をしていて、司馬懿の部屋から曹操の元へ行くのには
通常の回廊を行くより一旦庭へ下り裏庭を行く方が早いと言うのだ。
その事は、少し前に曹操自身から教えてもらった。
何でも、曹操が城を抜け出すのに便利なようにそうしたらしい。
無論、夏侯惇にだけは絶対に教えるなと強く口止めはされているが、
あの夏侯惇の事だ、恐らくとっくに気付いているだろう。
裏庭は人気が無く、しんと静まり返っている。
木々をすり抜けるようにして、孫権は曹操の部屋へと向かうべく
歩みを進めていた。
「仲謀!」
呼び止められて、孫権がため息ひとつ零して立ち止まる。
目の前には、数日前にこの国へ降ってきた男、甘興覇が居た。
「………何か御用ですか。甘寧殿」
ここ数日、誰かに見られているような気がずっとしていた。
もしかしたら甘寧かもしれないという予測もしていた。
だが、直に話し掛けてくるわけではないので、特に気にしないようにして
放っておいたのだ。
まさか、こんな所で呼び止められるとは思わなかったが。
「止めろよ、白々しい。
どうせ此処なら誰も居ねぇんだ」
「………何の話でしょうか?」
どきりとしながらも、孫権が平然と振舞いながらそう訊ねる。
黙ったまま甘寧が近付いてきて。
「……いい加減にしろよ、てめぇ。
俺まで騙せると思ってんのか!?」
襟首を掴むと、傍の木に強く叩き付けられた。
「い…痛……っ、」
「言えよ。いつからだ?」
「何が……っ、」
まだ誤魔化そうとする孫権に、苛ついたように甘寧が怒鳴った。
「いつから思い出してたんだって訊いてんだ!!」
困惑したような表情を浮かべる孫権に、甘寧が肩を竦めて手を離す。
「何故……」
「あんまり俺を舐めてんじゃねぇぞ。
見たら解るっつーの」
「………済まない、興覇」
僅かに視線を逸らしたままで、孫権が小さく小さく謝罪の言葉を口にした。
それに逆に困ったのは甘寧の方で、頭をがりがり掻きながら舌打ちを漏らす。
「んで、いつから記憶は戻ってた?」
「………前の戦の時に、尚香と会った時だ」
「てことはお前、妹まで騙したのか!?」
「し、仕方が無かったんだ!!
尚香を助けるには……それしか、方法が」
人前で泣いた事など滅多に無かった妹が、目を涙で一杯にして言った。
『帰ろう』と。
だが、自分には嘘を貫き通すしかなかった。
周りは敵だらけのあの状況では、そうする事でしか妹を守る方法が無かったのだ。
記憶が戻る前に自分が取っていた行動は、覚えている。
だからそれからも、まだ自分は何も思い出していない風を装う事にした。
自分を深く知る人間は、この場所には居ない。
大丈夫、やっていける。
そう思っていた。
甘寧が来るまでは。
「……何故、此処へ来た」
「それは……」
言い澱んで、甘寧が気まずそうに視線を孫権から外す。
「私を、助けにでも来たつもりか?」
「それもあるけど……本当は、そうじゃねぇ」
よほど言い辛いのか、甘寧がぽつりぽつりと話し出した。
尚香からの手紙を読んで、孫権の居場所を知った。
きっと誰もが、助けたい、救いたいと、そう思っただろう。
だが、甘寧の脳裏を過ぎった想いは、少し違うものだった。
ただ、傍に行きたいと。
ただ、それだけで。
「皆を……置いてきたのか?」
「ああ」
「誰にも言わずにか?」
「……多分、周泰は気付いてる」
「幼平が…?」
取り返しに来たつもりはなかった。
当然、記憶を取り戻した孫権が戻りたいと思えばいつでも手を貸す
つもりでいたし、もし何かの理由で孫権がここに残ると言うならば、
傍に居れば力になれると思った。
・・・既に記憶が戻っていたとは、流石に思わなかったが。
「何故……来たんだ」
大仰なため息と共に、もう一度孫権がそう零した。
「大丈夫だって。俺一人抜けたぐらいで、
あの国がどうにかなるとは思わねぇし」
「そうじゃなくて!!」
もどかしそうに甘寧の服の裾を掴んで、孫権が詰め寄った。
「もし……これから先、呉と戦にでもなったらどうするつもりだ!!
お前には、皆が斬れるのか!?」
「斬れるさ」
あまりにもあっさりとした、甘寧の答え。
「興覇……お前、」
「仲謀お前、勘違いすんなよ?
俺がどうしてあの時お前に誓ってみせたと思ってんだ」
皆よりも、一足先に誓った言葉。
『俺は、お前の手となり足となる。
お前の望むままに、戦場を駆ける』
あの時、孫権は今にも泣き出しそうな顔で見ていたけれど。
「俺は、あの国に誓ったんじゃねぇ。
これからお前が創り出すものに誓うんでもなければ。
君主としてのお前に誓うわけでもねぇ。
俺は……お前自身に、誓ったんだ」
孫権を守るためなら躊躇うつもりはないと。
だから、彼が君主の座に就く前でなければならなかった。
もしもその後だったならば、彼はきっとまた誤解をしてしまっていただろう。
己の忠誠の、向く先を。
周泰は知っていたから、促したのだ。
「興覇………」
「だから、お前が帰りたくねぇってんなら、止めるつもりはねぇ。
俺も此処に居る、ただそれだけだ。
けど……やっぱ理由は聞かせてもらわねぇとなぁ」
危険を冒してでも敵軍に留まっている、その理由を。
その意志が通じてか、孫権がじっと甘寧を見た。
以前と同じ、力を持った目で。
「私は、知りたいのだ。
傷つけ合ってまで、戦う意味を」
自分にとって、戦争とは何の意味も無かった。
ただ苦痛を伴うだけの、争いなのだと。
だから戦場に出るのも嫌だったし、こんな気持ちで後を継いだとしても
天下など夢のまた夢だったろう。
例え後の世に争いのない世界を築くための戦争だとしても、
今を生きる人々を傷つけてまで手にしないといけないものなのか、
そこまでしないと、手に入れられないものなのか。
「それを知るためには、守られてばかりではいけないと思った」
腕の中の竹簡を強く抱き締めて、孫権が俯く。
ただ黙って、甘寧は次の言葉を待った。
「今の自分に足りないものが何なのかぐらいは、気付いているつもりだ」
それは自分の弱さそのものであったし、これから天下を狙う上で、余りにも
致命的なものであった。
「私は、強くなりたい。
一国を担えるぐらいの強さを持ちたい。
父上や、兄上のような強さを。
そのためには、あの場所じゃ駄目なんだ」
「ここでないと、駄目なのか?」
「私が此処へ来てしまったのは、本当に成り行きであったが……、
それでも、少なくとも……此処でなら得られるものがあると、思った」
甘寧の問いに、孫権がそう断言する。
暫し考え込むように腕を組んで、甘寧が低く唸る。
そして、諦めたような吐息をついた。
どっちみち、自分に選択権は無いのだ。
「しゃあねーな。とことんまで付き合うぜ、仲謀」
「済まない……興覇」
頭を垂れて孫権がもう一度謝罪すると、その肩を労うように甘寧が
軽く叩いた。
「気にすんなって。俺が来たくてそうしただけなんだからな」
「なぁ…興覇、ここが敵軍だという事を少しだけ忘れて、見回してみると良い」
「ぁン?」
「敵といえども、一歩離れれば同じ人間だ。
喜ぶ事が我等と同じなら、悩む事も我等と同じなんだ」
例えば、司馬懿のように。
例えば、夏侯淵のように。
凭れていた木から背を離すと、孫権が手元の竹簡を指して甘寧に言った。
「とにかく今は職務の途中だからな、話はこれぐらいにしておこう」
「へいへい、っと」
肩を竦めてそう軽く言うと、甘寧が避けて道を開ける。
前に進もうとして、気付いたように孫権が足を止めた。
「そうだ、興覇」
「何だよ」
「私はまだ何も思い出していない事になっているからな、
仲謀でなく、孫権と呼んでくれ。
そんなわけだから……これからも宜しく、甘寧殿」
それでなくてもお前は解りやすいんだから気をつけてくれよと、
余計な一言まで言い残して、孫権は立ち去っていった。
その背中を見送って、甘寧が重苦しいため息を吐く。
厄介な事にならなければ良いと、そう思って。
「孫権殿……か」
うへぇ、言い難いなぁ。
そう嘆きながら、甘寧も城内へと戻っていった。
さわさわと風が流れる。
木々が、ざわめく。
その音を聴きながら、張コウが腕組みをして立ち去る甘寧の背を
上から見送っていた。
「ふぅ…ん」
まだ葉の生い茂る季節、木の上に居た自分の姿は隠れて見えなかったのだろう。
この場所でのんびり休んでいたら、あの2人がやってきた。
聞いてしまったのは、ほんの偶然だ。
先にこの場所に居たのは、自分なのだから。
それにしても、面白い話を聞いてしまった。
「さて………どうしたものでしょうか」
思案するように腕組みをしたままで、張コウは目を閉じる。
今聞いた話を上に進言して、牢に放り込むのは実に容易いことだ。
だが、少なくとも今の話では孫権は敵ではない。
そして恐らく、孫権が敵でない限りは、甘寧も敵にはなり得ないだろう。
「とりあえず……もう暫く様子を見てみる事にしましょうか」
うんと一つ頷いて、張コウが木の上から飛び降りた。
と、そこへ。
「わぁっ!」
真下に気が疎かになっていたのか、着地した傍で驚きの声が上がり、
張コウがそちらに目を向ける。
よほど驚いたのか、胸を手で押さえている徐晃の姿がそこにはあった。
「これは……すみません徐晃殿、驚かせてしまいましたね」
「いえ……、しかし、このような場所で一体何を……」
その問いに僅かに張コウが逡巡したが。
「いえ、少し休んでいただけですよ。
ここは風通しが良いので涼しいですし、何より静かですから。
休憩するには丁度良いんですよ」
そう言って張コウが、にこりと微笑んだ。
<続>
とまぁ、そういうワケなんで、孫権と甘寧は滞在決定。(笑)
次はまた戦が始まります。