<道標・痛み>
軍師とは如何なるものか。
その、存在価値とは。
そして……戦場に置いての生死について、
一体、それは何に重きをおくのだろうか。
その答えは、未だに、見えない。
城に帰還して直ぐ、張遼は医師に見せられた。
かなりの重傷ではあるが、命の危機は免れたらしい。
しばらく寝たきりは余儀なくされるが、回復もじきであろうと。
医師にそう告げられ、仲間はみな一様に安堵のため息を漏らした。
そして、戦の事後処理に追われ、みな散り散りに忙しい日々を送っていた。
顔を見たのは、もう一週間ぶりぐらいになるかもしれない。
いや、張遼の状態を聞いた時に隣に居たのは覚えている。
それがお互い顔を合わせた最後だったろうか。
どうしても、それが武将と軍師の差なのかもしれないが、職務内容も生活周期も
全く違う夏侯淵と司馬懿は、なかなかお互いの顔を見る事もできなかった。
だが、周りの話に耳を澄ましていれば、何度も司馬懿の名前は聞こえてくる。
それは向こうも、何事も問題なく今日を送っている証拠だったから。
だから敢えて、夏侯淵は何も心配していなかった。
それは今日、この廊下で本当に偶然にばったり会った、その直前までのこと。
「…………仲達、お前……」
「何か?」
本人は全く気付いていないのだろう、普段通りの表情で夏侯淵を見る。
だが、その目には何も映してはいなかった。
そう……今、すぐ正面にいる夏侯淵でさえも。
何があったのかと訊ねる事すらできなくて、夏侯淵は取り繕うように訊いた。
「あ、いや、その……張遼の様子は、どうだ?」
「話に聞く限りでは、大事は無いようだ。
昨日、少し意識が戻ったらしい」
素っ気無く答える司馬懿に、夏侯淵は小さく眉を顰めた。
「………話?
お前、まだ見舞いとか行ってねぇのか?」
「そこまでの時間が取れなくてな」
「ああそうか。じゃあついでだ。
俺、これから見舞いに行こうと思ってたんだ。
一緒に行くか」
「………っ、わ、私は…っ!!」
腕を掴もうとしてくる夏侯淵の手を払って、司馬懿は一歩後ろに下がった。
その目が、拒絶するかのように逸らされる。
思わず大仰なため息をついて、夏侯淵が腕組みをした。
「言ったよな、お前の気にする事じゃないって。
あれは、張遼の運が悪かっただけなんだって。
お前が気に病んでどうするんだ。
あれは、あの怪我は、お前のせいじゃねェんだよ」
「ああ。皆……そう言う」
本心か労いか同情か。
どれなのかまでは掴み取れないが。
だが、あれは紛れもなく自分の過失であった。
相手の策も見抜けず軍を動かした、己の過失だと。
なのに、誰も自分を責めない。
目の前に居る、この男さえ。
だから司馬懿は、自分で自分を責め続けている。
「私のせいでなければ、何だ?
張遼殿の力不足か?
庇われた、張コウ殿か?
助けに行けなかった、徐晃殿か?
…………そうではないだろう」
「仲達………?」
初めて見る、表情だった。
全ての責を自分一人で背負い、誰にも寄りかからず、誰にも投げつけず。
ただ、武将の命を預かる軍師という重責の名において。
その責の重さを認めた上で、生きる者の目。
こんな形の孤独もあるのか。
仕官した当初の司馬懿を思い出して、夏侯淵は目を伏せた。
もう、あの時のような顔は見たくなかったのに。
戦場における一国の存続と、一個人の将の命までその肩に負わなければ、
この軍師という役目は果たせないのか。
「………違うだろ………」
ぽつりと、吐き捨てるように夏侯淵が言葉を絞り出した。
「数居る将の中の一個人の命なんて、軍師ごときがどうにかできるわけねぇんだよ…」
「………妙才殿…?」
どうしてそんなに苦しそうな表情を夏侯淵が見せるのかが解らなくて、司馬懿は
訝しげに眉を顰める。
「俺は、お前が全ての責を負う、その理由に納得がいかねぇんだ。
やっぱり来い!張遼の所へ行くぞ!!」
「ちょ、待て、妙才殿!!私は行かぬと……!!」
「うるせェ!!」
どこか苛ついた口調でそう一蹴すると、夏侯淵は司馬懿の腕を掴んで引き摺るように
張遼の部屋へと歩いていった。
初めて感じた武将と軍師の溝を埋めるための、その答えを得るために。
体中に巻かれた包帯も、今はもう左腕に残るもののみとなった。
もともと自分は掠り傷が殆どだったのでそんな必要も無いと言ったのだが、
大事を取れと言われては、断る術も無い。
左腕の包帯に少し視線を落とし、小さな吐息を漏らすと張コウは
窓の手摺に寄りかかるようにして、外の景色に視線を向けた。
開け放した窓から扉へと風が通り抜け、ひとつに括られた張コウの髪を揺らす。
張遼の見舞いには、一度も行っていない。
行こうとは思ったのだが、何処かでそれをためらう自分が居た。
その理由には、何となく見当はついている。
「張コウ殿」
開かれた扉の向こうから聞き馴れた声がして、張コウが振り返る。
そこに立つ徐晃の穏やかな笑みにつられるように、張コウも緩く
微笑を浮かべた。
「徐晃殿。どうされました?」
「確か、今日は張コウ殿は非番だったと思いましてな。
これから張遼殿の見舞いなど一緒にどうかと……」
「そうですね………」
頷いて答える張コウだが、凭れた手摺から全く動く素振りが見えなくて、
徐晃が首を傾げた。
失礼、と一言告げて室内に入り、張コウの傍へと近寄る。
「……どうかされましたか?」
「私………」
話そうとする唇が、少しだけ、震えた。
「私は、一体どんな顔をして、張遼殿にお会いすれば良いのでしょうか」
驚いたように見開かれた、徐晃の目。
それに少しだけ居心地が悪そうに、張コウは視線を外へと向ける。
「あの戦で沢山の仲間が死に、私を庇った張遼殿も大怪我を負い、
私だけが今、この有り様です。
一体、私は彼に向かって何と声をかければ良いのでしょう?」
「張コウ殿………」
「正直、恥ずかしくて見せられる顔ではありません」
それはきっと、一人無事で居る事に対する、負い目。
何と声をかけて良いのか解らず、ただ黙って徐晃は張コウを見つめていた。
暫くの無言の後、徐晃が返した言葉は。
「張コウ殿……張遼殿の顔を見に行きましょう。
そこで貴殿が、謝罪するのか、張遼殿の無事な姿を喜ぶのか、
それは解りませんが……。
行って顔を見れば、言わねばならない言葉も見つかるでしょう」
「………そうです、ね」
苦笑を漏らして、張コウも漸く手摺から離れた。
先に立って歩き出す徐晃の後を追いかけるように張コウも続く。
廊下を歩く途中で、徐晃がふと足を止めた。
つられて張コウも立ち止まると、背中を向けたままで徐晃が、言った。
「本当は、拙者がこのような事を言える立場にはありませぬが、」
「貴殿は、もっともっと強くなりなされ。
今回の事が身に堪えたなら、二度繰り返さぬ事です。
強くなって、次は貴殿が張遼殿を助けてやりなさい」
「……っ、」
張コウの眦が、涙で滲んだ。
「大丈夫です。
貴殿はまだ、強くなれる」
振り返った徐晃の顔は、優しかった。
<続>
武将と軍師、武将と武将。
その違いが、張コウと司馬懿の立場に表れていればいいなと思います。
ちょっと辛気臭い話が続きますが、これも次の話へと続くための伏線だと思って
頑張って読んで下さい。(苦笑)
どうだろうなぁ……前の戦の話が終わるまでを第一章と位置付けるなら、
これは第二章の序章といったところでしょうかね。(笑)
ちなみにそうなると、この話は全四〜五章といったところですかな。(長スギやー!!)