<道標・落しもの>

 

 

 

 

「兄上……やはり、私が継がねばならないのですか?」
ある昼下がり、孫権はもう一度兄の説得を試みていた。
やはり、何度考えても自分が継ぐ理由が思い当たらないのだ。
「お前も結構しつこいなぁ。いい加減諦めろよ、仲謀」
中庭に面した縁側に座り、孫策は軽く笑い声を上げる。
「それにな、これに関しては今のところ誰も反対しちゃいねぇんだ。
 ちゃんと公謹にも話した。アイツも賛成してくれたよ」
「で、ですが……」
どうしてこのような無理な道理が通用してしまうのだろうか。
中庭に立つ孫権が、困ったように空を仰ぎ見た。

 

 

 

 

二階の廊下を早足に陸遜が歩く。
いつになく苛々した口調で、陸遜が後ろを歩く甘寧を振り向いて言った。
「貴方、本当にそんな事考えてるんですか?」
「何が悪いってんだよ」
「何がって……ああもう!!」
心底呆れたように首を横に振り、陸遜が大仰なため息を吐いた。
こんなに怒りを顕にしている陸遜の姿も、そうある事ではない。
「本当に貴方ってば単細胞なんですね。よーっく解りましたよ。
 孫権様も、どうしてこんな男が良いんだか……」
「お前な…さっきから聞いてりゃ言いたい放題言いやがって…」
陸遜の言いたいことが理解できず、尚且つこの物言いに、
元々短気な甘寧も少しずつ語調に苛つきが見え始めてくる。
それまで成り行きを見守っていた呂蒙が、困ったように口を開いた。
「2人とも、少しは落ち着かんか、な?」
「あのですね、」
そんな呂蒙にチラと目をやり手で制して、陸遜は甘寧を見遣った。
「今度の戦はそんな生易しいものじゃないんです。
 私の一存でどうこう言える事ではありませんが、貴方の意見は到底
 認められるものではありません。
 ……私自身、貴方がどうなろうと知った事ではないんですけどね」
「陸遜……てめぇ、いい加減にしろよ……」
言葉に棘の混ざり始めた陸遜に怒りが頂点に達したか、甘寧が怒鳴った。
「俺だって何も考えナシに、あんな事言ったんじゃねぇ!!」
「…っ!まだ解らないんですか!!」
襟首を掴まれた陸遜が、それでも怯む事無く負けずに怒鳴り返す。
「や、やめんかお前達っ!!」
慌てて呂蒙が間に割って入ろうとしたが、その前に陸遜が。

 

「貴方はまた孫権様を泣かせるのですか!?」

 

「てめ……!!」
甘寧の右腕が、陸遜に殴りかかろうと上がった。
その時肘に何か硬い感触がして、甘寧の腕が止まる。
「いかん!!」
呂蒙が慌てて声を上げ、甘寧の方へと手を伸ばした。
正確には、その後ろにあった花瓶へと。
廊下の手摺に均等に備えられている飾り棚、その上に置かれていた花瓶が、
ぐらりと外に向かって倒れたのだ。
伸ばされた呂蒙の手は、一瞬の差で間に合わなかった。

 

 

兄にまだ何か言い募ろうとしたその時、頭を鈍い衝撃が走った。
何が、と思う前に目の前には地面が迫っていて、『ああ、倒れるんだ』と
どこか冷静に考えている自分がいる。
「ち、仲謀っ!!」
孫策が慌てて孫権の元へと走り寄る。
「大丈夫か、おい!!しっかりしろ!!」
兄に呼ばれ必死に体を起こそうとしたが、それは叶わなかった。
視界が白くぼやける。
「誰だ!!」
上に向かって孫策が怒鳴っている。
自分の身に何が起こったのか知る事もないまま、孫権は瞳を閉じた。

 

 

 

 

目を開くと、周りを数人の男が取り囲むように覗き込んでいた。
「仲謀、良かった。目が覚めたか」
一人がホッと息を漏らす。
「孫権様、申し訳ありません、我々の不注意で……」
三人が揃って頭を下げる。
「仲謀、どこか痛む所は?」
残りの一人がそう尋ねてきて、孫権は静かに首を横に振った。
皆、見知らぬ者ばかりで、孫権は眉を顰める。
「…どうした仲謀、やっぱりどこか調子が悪ィのか?」
そう心配そうに訊ねる男に、とりあえずそうするのが無難なのだろうと思い
孫権はこくりと首を縦に振る。
すると男は軽く孫権の頭を撫でると、労わるように言った。
「もう少し寝てた方が良いんじゃねェか?
 頭ぶつけたんだ。大事を取るに越したことはない。
 な、公謹?」
その言葉に小さく頷いて、隣に座る長髪の男が立ち上がった。
「とりあえず、今はゆっくり休む事だ。
 私達は部屋を出るから、何かあったらすぐに呼ぶと良い」
そう行って出て行く男達を見送り、孫権は呆けるようにして天井を見上げた。

 

知らない。

誰も、知らない。

自分の事すらも。

 

「………私…は、」
ぽつりと呟くように吐き出される言葉。
どこか、自分のもののようには感じられなくて。

孫権はもう一度、ため息を吐いた。

 

 

 

 

<続>

 

 

予告通りにやってみる、記憶喪失ネタ。(笑)