<道標・惨敗>

 

 

 

 

柵の前で跪いて、どのぐらい経ったか。
ふいに肩を叩かれて、その身が竦み上がった。
だが、その耳元で囁かれた言葉は。

 

「……少し、そこを退いていろ。
 すぐにこの柵を上げる」

 

普段よりもずっとずっと優しい声音に、徐晃の全身から一気に力が抜けた。
「司馬懿……殿」
重く長い息を吐く。
振り向けば何時の間にか孫権も居て、周囲の兵に指示を出し柵を除けようとしていた。
腕を引かれ、促されるままに徐晃はその場を少し離れる。
「司馬懿殿……来て、下さったのか」
「何事かは言わなくても解っている。
 とにかく……徐晃殿が無事で居て、良かった」
「張コウ殿と張遼殿が……あの柵の向こうに、いらっしゃいます」
「…………そうか」
消え入りそうな声で告げられた言葉に、司馬懿が短く答えた。
魏軍の兵士達の手によって、柵はゆっくりと持ち上げられる。
司馬懿はそれを見ると、その向こうへと歩き出した。
「……徐晃殿、」
「はい」
「見たくなければ、そこで待つが良い」
「…………」
言葉を無くして徐晃はその場に立ち尽くす。
だが、ゆっくりとその足は司馬懿の後を追って歩き出していた。
「拙者も参ります。
 この目で確かめたいと、思います」
「好きにすると良い」
これから先を知る権利も拒否する権利も、徐晃にはあるだろう。
司馬懿自身は、この現実を受け入れないわけにはいかないから。
全てを知る義務が、司馬懿にはあった。

 

 

 

 

 

中はとても、静かだった。
誰の息遣いも聞こえない。
中には沢山の、兵士達がいたというのに。
皆、静かにそこに横たわっていた。
中には木に凭れ掛かるようにしている者もあった。
半身が欠けた者が居た。頭部の無いものが居た。
中には、体のどの部分か解らないものまで、あった。
それらを全てぐるりと見回しながら、司馬懿と徐晃は黙ったまま真っ直ぐ
道なりに歩いて行く。
奥に進めば進むほど、その残骸は原型を留めていないものが増えていく。
「……一瞬、だったのだろうか」
死を迎える、その瞬間は。
言外にそう込めて、司馬懿が小さく呟いた。
「そうですな……苦しまずに済んだのなら……」
徐晃も、静かに言葉を漏らす。
細かった道が急に開けて、その全貌を覗かせた。

 

 

 

 

 

「…………」

言葉が出なかった。
その光景は、一生忘れることはできないだろう。
無数の屍、中途半端に焼け焦げた、異臭。
その真ん中にたった一人。
一人だけ身を起こして、ぼんやりと宙に視線を彷徨わせている。
徐晃と司馬懿からは背中しか見えないが、その背は黒く煤けていて。
長い髪が、風に揺れた。
立ち尽くす司馬懿を置いて、徐晃がゆっくりとそこに向かう。
男の後ろで立ち止まって、声をかけた。

 

「…………張コウ殿」

 

返事は、無い。
それでも構わず、徐晃は問うた。
「張コウ殿、張遼殿は如何された」
その言葉に張コウが力なく腕を上げ、自分の右を指差す。
徐晃が視線を向ければ、うつ伏せに倒れている張遼が目に入った。
外套だけではなく内の衣服まで焼け落ち、露になっている背中もまた、黒く焦げている。
「……司馬懿殿!!」
振り返って徐晃が大声で呼ぶと、司馬懿が我に返ったように慌てて駆けてくる。
張遼の傍に膝をつき、耳元で名を呼んだ。
徐晃も張遼の傍で様子を伺う。
「張遼殿、張遼殿しっかりしろ!!」
「………………、」
ほんの小さく揺さぶりをかけると、張遼が掠れた吐息と共に、ごく小さく身じろぎをした。
「張遼殿、聞こえているか?」
「………しば、い、どの………」
小さく小さく声が聞こえて、司馬懿が安堵の息を漏らす。
生きていた、その事がとても嬉しかった。
「…………ちょ、こ、う……どの……」
「大丈夫だ、無事でいる」
司馬懿がそう答えてやると、張遼の口元が微かに笑みの形に象られた。
全身の力が抜け再び意識を失った張遼を本陣に搬送するため、司馬懿は人を呼びに元来た道を
駆け戻っていく。
徐晃もほっとした表情を見せ、それから立ち上がると再び張コウの傍に歩み寄った。
「張コウ殿、張遼殿はご無事です。
 さ、我々も帰還の準備を……」
「…………張遼殿は、私を庇って下さいました」

 

 

力任せに地に押し付けられ、上から張遼の体が覆い被さった。
退けと叫んだが、それは聞き入れられなかった。
閃光が目を焼き、爆音が耳を壊し、熱が身を焼き、衝撃が全身に響いてそのまま意識を失ってしまった。

本当の恐怖は、目が覚めてからやってきた。

 

 

「皆……逝ってしまいました。
 どれだけ目を凝らして捜しても、息づいているものは何もありませんでした。
 何故……私だけが、」
そこで徐晃はやっと気付いた。
張コウはぼんやりと視線を彷徨わせていたのではない。
ほんの少し前まで共に生を歩んでいた者達を、ずっと見つめていたのだ。
目に焼き付けるように、決して忘れないように。
張コウは自分が思っているよりもずっと、強く、優しい人間だった。
「………張コウ殿、」
手を伸ばし、張コウの背中をそっと抱き締める。
右手で視界を遮るように、彼の両目を覆った。

 

「張コウ殿…………もう、見なくても良いのです」

 

その言葉に、腕の中で張コウの体が小さく震える。
「……徐晃…殿、」
「我等の……負けですな」
「…………」
当てた右手が熱い。
ただ溢れてくる涙に小さく嗚咽を混ぜて、張コウが小さく首を縦に振った。

 

本陣は守りきったというのに、惨敗だ。

 

 

 

 

 

張遼を馬に乗せて、司馬懿が孫権を呼び寄せる。
「孫権殿、すぐに本陣に戻り、張遼殿を医師に診せるのだ。
 事は一刻を争う。急いでくれ」
「は、はいっ!!」
馬に跨って手綱を握ると、孫権は数人の護衛を共に本陣に向かった。
ちらりと、張遼の状態を目にする。
「………酷いな……」
普通の人間なら目を背けてしまいたくなる状態。
孫権も、最初は直視できなかった。
一番酷いのは背中だが、全身の至るところに火傷を負っている。
今は意識を失っているからまだ良いが、これから張遼は激痛と戦っていかなくては
ならないのだ。
「………戦、なんて……」
生み出すものは何もない。
生か死か、2つしかない選択肢の中で、どうして人は生きていけるのか。
「こんな所で死んでしまってはいけません。
 張遼殿、しっかりなさって下さい……」

傷つき倒れる将を前に、何もできない軍師である自分が、どうしようもなく腹立たしかった。

 

 

 

 

 

<続>

 

 

 

なんとか一段落。

話はまだまだ続くんですけれどもね。

張遼という人物をもう少し土台作りしたかったのと、

戦場での張コウの力、というのも書いておきたくて。

う〜ん…結局、強いのか弱いのかよくわかんないなぁ。

まぁ、負け戦だししゃーないか。(苦笑)