<道標・窮地>
「冗談は……よしてよ、ねぇ……!!」
ただ大きく目を見開いて、孫尚香はかぶりを振る。
しかし、孫権の返事は何度訊いても同じだった。
「私は……何も覚えていないのです。
ですから、貴方の事も……今は、何も思い出せません」
「そんな……ねぇ、兄さま、帰ろう?
皆のところに帰ろうよ、ねぇ……!!」
埒の明かない問答に、張コウが困ったように司馬懿を見た。
「司馬懿殿、この方は……」
「孫堅のところの娘が、蜀の劉備に嫁入りしたという話は聞いた事がある。
まさか……その女だとは思わなかったが、な」
「では、孫権殿の、妹君という事ですか?」
「そういう事だ」
短く答えて頷くと司馬懿は孫尚香に近付いて傍に膝をつく。
孫尚香の顔を覗き込むように見て、言った。
「女、孫権は諦めろ。
記憶喪失でな、何も覚えておらんのだ。
もっとも思い出したところで、返してやる気もないが…」
「………っ、」
「今、兵を退くというのであれば、開放してやろう。
どうする?」
有無を言わさぬ強い口調で言えば、孫尚香がきつく歯を食いしばる。
男勝りの彼女にとって、それは屈辱以外の何物でもなかった。
「わ、わたし……」
退きたくない。退きたくはないが、目の前に居るこの長髪の男を跳ね除けて
勝ち目があるとも思えない。
それに兄の姿を目の前にして、孫尚香は完全に戦意を失ってしまっていた。
「尚香様!!」
「…っ、止まりなさい!!」
外での戦闘を終えて追いかけてきた親衛兵に、孫尚香が怒鳴った。
「………今回は、退くわ」
震える声でそう言うと、司馬懿が張コウに視線を送る。
それを合図に張コウは孫尚香の首元から鉤爪を離すと、その手を取って
助け起こした。
「権……兄さま……」
孫権を見つめる、弱々しい瞳。
だが、そんな妹に対する兄の言葉は酷く冷たいものに感じられた。
「……今助けられたその命、大切にして下さい」
ああ、この男は私の知っている兄ではないのだ。
表情も声も目の色も、こんなに兄の面影を持っているのに。
落胆にも似た表情で孫尚香は俯くと、3人に向かって一礼した。
「いつか……いつか、必ず兄様は取り返すから、」
それまで、大切にしていて。
傷つけたら、許さない。
それだけ言うと、孫尚香は3人に背を向けた。
「尚香様…」
「いいのよ。退くわよ」
颯爽と立ち去る姿に目をやって、孫権がそっとため息を吐いた。
少し、可哀想な気がして。
敵とはいえ、それで彼女の命は救われた。
その事実に少し安心はしたけれど。
「……そういえば張コウ殿、よく戻って来れたな?」
司馬懿がそう問うと、張コウが苦笑を浮かべた。
「徐晃殿から赤兎を拝借しましてね。
私が乗っていた馬では、到底間に合いませんでしたよ」
そうして指差した先では、呑気に草を食む赤兎の姿。
それに近付いて、司馬懿がそっと鼻面に触れる。
「そうか、お前のおかげか……すまないな」
「ちょっと司馬懿殿、私にはお礼の一言もないのですか?」
憮然とした表情で言う張コウに、司馬懿は肩を竦めて赤兎の手綱を弄び……発された
言葉は張コウが求めていたのとは全く別のものだった。
「張コウ殿……諸葛亮は、二重にも三重にも策を巡らすのが得意でな」
「は……?」
「今頃、徐晃殿と張遼殿は苦戦を強いられているかもしれんな…」
「な……っ!!」
ばたばたと走ってきて司馬懿の手から手綱を奪い取ると、赤兎に跨った。
「もっと早く言って下さいよ、そういう事は!!!」
顔を真っ赤にしてそう怒鳴ると、張コウは赤兎に鞭を入れ元来た道を引き返していった。
去っていく後ろ姿を眺めて、司馬懿がくすくすと小さな笑い声を上げる。
「……司馬懿殿?」
「あやつも…もう少し2人を信用してやれば良いものを」
「え?」
「苦戦は免れないだろうが…そんな簡単に崩れる2人ではない」
「確かに……それは、私も思いました」
訓練場での張遼と徐晃を思い出し、孫権も笑みを浮かべる。
普段は穏やかな笑顔を称えてそこに居る2人も、戦場では鬼と化す。
一番、侮ってはいけない人種だろう。
「さて、孫権殿。
恐らく本陣奇襲が失敗した時点で、向こうの目的は潰えたと見て
良いだろう。
我々は、ここでゆっくりと皆の帰還を待つとしよう」
まだ僅かに不安は残るが、あとは皆を信用するしかない。
先頭を走っていた張遼の視界が、急に開けた。
開けたというよりは、見通しの良い地形に変わった、と言った方が良いだろう。
僅かに馬の速度を緩めて、張遼が辺りを見回した。
静かだが、この溢れんばかりの殺気は何だ。
「ふむ……」
手を伸ばして兵を止め、それ以上の進軍を止める。
前方から、1頭の馬が悠然と進んでくる。
それは張遼自身もよく見知った顔だった。
「………関羽殿」
「張遼殿、またお会いできましたな」
「お元気そうで、良かった」
久々に会った友人のような会話を交わし、穏やかに笑いあう。
「張遼殿こそ、ご健勝で何よりですな。
さて……」
関羽の表情が一変したのに、張遼が戟の柄を握り締めた。
何かが、来る。
「閉門!!」
上から降ってきた重い柵は、魏軍の兵を何人か押し潰して後続の軍を遮断した。
「………成る程、」
これでは、もう徐晃の援軍は期待はできない、という事か。
軽く後ろを見遣って肩を竦めると、張遼は前方の関羽に再び目を向ける。
関羽が片手を高く上げる。
周囲から何百という蜀軍が、音もなく姿を現した。
「……では、お覚悟は宜しいか、張遼殿」
関羽の言葉に、戟を構えた張遼の額から汗が一筋、流れた。
<続>
舞台は張遼と徐晃の方へ。