<道標・兄と妹>

 

 

 

門前に立つ兵士数人を斬った事を皮切りに、本陣での戦いが始まった。
女とはいえいっぱしの武将を誇る孫尚香にとって、一般の農民上がりの兵など
敵ではなかった。
「さぁ、死にたくなかったらどきなさい!
 こっちは急いでるのよ!!」
高らかに声を上げて、孫尚香は武器を構えた。

 

狙うはただ、司馬仲達の首ひとつ。

 

 

 

 

 

急に外が騒がしくなり、司馬懿は立ち上がった。
黒扇を握り締め、孫権に視線を送る。
それに無言のまま頷いて答え、孫権もまた剣を手に立ち上がった。
表から聞こえる剣戟に、戦の舞台が少しずつこちらに向かってきているのは
明白だった。
「孫権殿、準備は宜しいか」
「………はい、大丈夫…です」
抵抗がないといえば嘘になるけど、それでもこんな所で命を落とすのは
御免だし、それに、この国を勝たせてあげたいと思ったから。
司馬懿を守るのは、自分の役目だと。
迷ってはいけないと言った徐晃の言葉を思い出す。

 

迷っては、いけない。

その一瞬の隙が、自分の最期だ。

 

剣の柄を強く握り締める。
剣戟の音は少しずつこちらに近付いてくる。
そして悲鳴。喚声。
耳を澄ますと聞こえる、血飛沫の舞う音。
胸のどこかが、ちくりと痛んだ。
だが、そんな事に構っている余裕などなくて。

 

廊下の奥から、数人の影が見えた。

 

一瞬にして全身が総毛立つ。
左手で剣を抜くと、司馬懿の体を右手で背後に押しやった。
「司馬懿殿、下がって下さい!!」
「……孫権殿…?」
剣を構えて動かない孫権に、司馬懿が怪訝そうな表情を見せる。
だが、奥から現れた人物に目を向け、その表情が凍りついた。
「き……貴様は……」

 

「見つけたわ、司馬仲達!!
 貴方の首はこの孫尚香が頂くわ。覚悟しなさい!!」

 

飛び込んで来た少女に、孫権は目を丸くした。
あの寒気がする程の感覚は、この一人の少女の気迫のせいなのか。
「さぁ、観念なさい!!」
「そうはさせぬ!!」
その悪寒を振り切るように首を振ると、孫権は剣を振り翳して
孫尚香に向かって斬りかかった。
「……甘いわよっ!!」
その剣を容易く自身の武器で受け止めると、強く弾き返す。
一歩孫権が飛び退いて、剣を中段に構えた。
と、孫権の顔をまじまじと見つめた孫尚香が、驚愕の表情を見せる。

 

「け、権……兄さま……?」

 

大きく見開かれた瞳には、今は孫権の姿しか映っていない。
早くから戦場を駆け巡っていた上の兄孫策とは違って、城の中に居る事が
多かった孫権は、よく妹である孫尚香の面倒を見ていた。
家族の中で、一番長くいた相手。
今の孫権はともかく、妹が兄の顔を見間違う筈がない。
「兄さま!!権兄さまよねっ!?」
「く……下がれ!!」
横から手が伸びてきて、司馬懿に引き摺られるようにして孫権は後ろに下がる。
それを庇うように前に立った司馬懿は、黒扇を手に真っ直ぐ孫尚香を睨み据えた。
少女から発せられる、低い低い押し殺した声。
その声は、微かに震えていた。
「………どうして、権兄さまがそこに居るの……?」
「貴様には関係なかろう。
 必要なのは私の首ではなかったのか?」
すっかり我を無くしている孫尚香は、その挑発に素直に乗ってくる。
「そうね、貴方を倒してから権兄さまにじっくり話を聞く事にするわっ!!」
武器を構え司馬懿に向かって飛び掛る。
司馬懿は黒扇をゆったりと手にしたまま、微動だにしなかった。
それが余計癇に障って、孫尚香の神経を逆撫でする。
「……死になさい!!」
その刹那、司馬懿の表情に笑みが宿る。

 

 

一瞬、鷹が襲ってきたのかと、見紛うた。

 

 

強く押し付けられるようにして、孫尚香は床に叩き付けられる。
背中に走った激痛に息を詰まらせるようにして呻き、そして薄く目を開いた。
首元には、鋭い鉤爪。
ひとつに纏められた長髪が、目前でゆっくりと揺れている。
「させませんよ、お嬢さん」
小さく吐息をついて孫尚香に向けた爪はそのままに、張コウは視線だけを
司馬懿に向けた。
「全く……司馬懿殿、少しは応戦しようという態度ぐらい見せて下さいよ」
「何を言う。貴様が来たから譲ってやっただけだ」
改めて張コウは視線を少女に送る。
まだあどけない容貌を残したその少女は、悔しそうに、涙を堪えるかのように
強く唇を噛み締めていた。
「……こんな、年端も行かない少女を、戦地に……しかもよりによって
 単身で本陣に送り込むなんて……蜀という国は一体…」
「それが諸葛亮のやり方だ」
複雑な表情を浮かべる張コウに、後ろで所在無く司馬懿が答える。
組み敷いた下で無抵抗のまま、孫尚香は視線を孫権に向けた。

 

「ねぇ、権兄さまなんでしょ……?
 どうして魏なんかに居るの?
 策兄さまは?周瑜は?………興覇は、どうしたの……?」

 

ぽろりと、その双眸から堪え切れなかった涙が零れた。
何かを言おうとした司馬懿を肩に手を置いて制すると、
孫権は黙って前に出る。
少女の訴えかけるような目を見ても、それでも、自分には何も
応えてやる事ができない。
だから敢えて、伝えようと思った。

 

「すみません。私には……貴方が誰かが解りません」

 

 

 

 

<続>

 

 

 

尚香ちゃんがカワイソウになってきたな〜……なんか。(汗)

いやいやでもでも、先の展開のためには…!!