<道標・予感>

 

 

 

 

魏の領内の端には、今は誰も住んで居ない、古い小さな城がある。
その場所から、蜀の軍勢を見る事ができた。
本拠地となる幕を立てる手間もかからないという利点から、
その場所を拠点と決めた。
「孫権殿、あれが蜀の軍勢だ。
 思ったよりも少ないな……これならどうとでもなる」
「あれが……蜀、」
結局、司馬懿は皆に事情を説明した。
あの後孫権も会議室に連れられ、話を共にした。
皆、驚いたような顔を向けたが特になにも言わなかった。
妙に順応性のある連中だ。
「とりあえず……先手を打っておくか」
「伝令は、」
「こちらの部隊を前進させよう。
 あの3人なら、何が起こってもどうとでも対処するだろう」
「解りました」
孫権が頷いて、その場を出た。
小さく吐息をついて、司馬懿が手摺に凭れ掛かるようにして
目下に広がる蜀の軍勢を見遣る。
恐らく、これなら諸葛亮自身が出てきているという事はまず考えにくい。
となると、徐晃が言っていた事を信じるならば、大将は関羽という事になる。
「まぁ……誰が相手でも良い。叩き潰すまでだ」
なのに、この胸を押しつぶされるような不安は何なのか。
見えない所に存在する諸葛亮の影か、それとも。

 

「妙才殿……」

 

顔面に苦渋を滲ませて、司馬懿は小さく呟いた。

 

 

 

 

先陣を切って馬を走らせる張遼は、眉を顰めた。
1人、2人と切り伏せて、張遼は馬首を反転させると、部隊には
そのまま前進させるように指示を出して一人、後退する。
少し走らせると、後詰の徐晃の姿が見えた。
「徐晃殿!!」
「これは…張遼殿、如何された?」
「いや…少し気になる所があってな」
「は…」
徐晃が怪訝そうな顔を向けて首を傾げる。
「少し、様子を見てみるべきか…」
「気になるところというのは、何なのですか?」
「いや…杞憂なら良いんだがな、」
苦笑を浮かべて張遼が答えた。

 

「どうも、すんなり前に進みすぎている。
 逆に…向こうに誘い込まれているような気がしてならんのだ」

 

「誘導……ですか」
「いや、まだそうと決まったわけではないからな。
 だからとりあえず油断だけはせぬようにと」
それだけ言うと、張遼は再び前線に戻るべく馬を反転させる。
その後ろ姿に徐晃が声をかけた。
「張遼殿!あまり蜀を舐めてかからない方が宜しいぞ!!」
「……徐晃殿、」
「油断すれば、足元を掬われます。
 慎重に行きましょう」
振り向けば、穏やかに笑う徐晃の姿。
それに少しだけ安堵の息を吐いて、張遼が笑みを浮かべた。

「ああ、肝に銘じておく」

 

 

 

 

少しずつ、敵の軍勢が自軍の本陣に向かって進んでいく。
それを見届けてから、少女は立ち上がった。
その姿は、まるで凛と咲く一輪の花。

「さぁて……そろそろいいかな?」

小さく合図をすると、他に数人の兵士が姿を現した。
頷いて、少女は前方に見える城を指差す。
「あれが敵の本陣よ。
 一気に叩くわ。用意はいい?」
「はっ!」
楽しそうに笑みを浮かべると、少女は城を見据えた。

 

「司馬仲達ね……貴方の首はこの孫尚香が貰い受けるわ!!」

 

 

 

 

胸騒ぎがする。
どうにも、落ち着かない。
一度馬を止めて、張コウは辺りを見回した。
自軍の兵以外の者は見受けられないし、殺気を感じるわけでもない。
ただ、無性に心が焦っている。
その原因に全く心当たりがなくて、張コウは首を傾げた。
「……おかしいですねぇ……」
そんな事を呟いていると、前方から徐晃が馬を駆けさせてくるのが見えた。
「徐晃殿……どうされたのです?」
「いや、先程張遼殿が……」
徐晃自身も今ひとつ要領を得ないような様子で、先刻の張遼の言葉を伝える。
そもそも、一番先頭を走っているのが張遼であり、後詰の自分達には
ついて行く事しかできないため、その感を得ることはできないだろう。
だが、張コウはその言葉に顔色を変えた。
「誘導……ですか……!?」
「だが、敵軍の気配が全くしない。
 我等が何処からか急襲されるという恐れもあまり……」
「ちょ、ちょっと待って下さい!!」
些か慌てたような雰囲気で、張コウは徐晃の言葉を止めた。
「張コウ殿?」
「もしかしたら……」
嫌な予感が、した。

 

「もしかしたら、敵の狙いは我々ではないのではありませんか……?」

 

その言葉に、徐晃の顔色も変わった。
「ま、まさか、そんな……!?」
「もしも、我々を急襲するために誘い込んでいるのだとしたら、
 先程通ってきた見通しの悪い湿地でとっくにやられてますよ。
 恐らく狙いは本陣。大方、どこか近くに伏兵を潜ませているのでしょう」
「ならば、急いで引き返さねば……!!」
それに暫し逡巡して、張コウは口を開いた。
「いえ、徐晃殿。
 我々は敢えて、誘い込まれ続けた方が良いかもしれません」
「何故に…」
「我々が感付いたと、向こうに知られてしまいます。
 ならば……」
張コウが馬から降りて徐晃に近付く。
馬上から不思議そうに見つめる徐晃に、張コウは微笑んだ。
「徐晃殿、赤兎を私にお貸し下さいませんか?」
「………張コウ殿、」
咎めるような、徐晃の声音。
「まさか張コウ殿、一人で戻られるとか仰るわけではないでしょうな?」
「いえ、そのまさかですよ」
苦笑を浮かべて張コウが答える。
「危険です」
「それは本陣に居る司馬懿殿と孫権殿も同じです」
「ならば拙者も…」
「張遼殿に3軍全て面倒を見させるおつもりですか?
 それは余りにも酷というものですよ」
ふわりと、柔らかい笑み。
それに徐晃が眉を顰めた。
「大丈夫。大丈夫ですよ。
 向こうに着けば司馬懿殿も孫権殿もいらっしゃいますから。
 決して、一人で戦うわけではありませんし、ね」
そう言われて、徐晃はしぶしぶ赤兎から降りる。
その手綱を張コウに渡して、それでも念を押すように言った。
「本当に、無理はして下さるな?」
「大丈夫ですってば。それよりも徐晃殿、
 貴方こそ気をつけて下さいね。
 まだ、この道の先に伏兵が居ないとも限らないのです。
 それから……私の軍も、貴方に預けていく事になりますから」
「その程度、どうという事はありません」
平然と答えて、徐晃は今まで張コウが乗っていた馬に目をやる。
「向こうの思惑通り、とことんまで誘い込まれてやりましょう」
「……では、」
すれ違いざまに、お互いの手を打ち鳴らす。
発した言葉は、同時だった。

「「ご武運を」」

 

 

 

 

進んでいく自軍を少しの間だけ見送って、張コウは赤兎に跨った。
ああは言ったが、恐らく十中八九自分の勘は当たっている筈だ。
司馬懿と孫権で、どこまで食い下がれるか。
随分と遠い所まで進軍してしまっているので、戻るのはそう簡単にはいかない。
「赤兎……すみませんが、頑張って下さいね。
 救わねばならない方達が居るのです」
その言葉に応えるかのように、赤兎は一声嘶く。
それに嬉しそうに微笑んで、張コウが言った。
「良い子ですね。さぁ、行きますよ。
 とびきりの速さと美しい姿、この私に見せて下さい!」

 

 

早く。一刻も早く。

 

 

 

 

<続>

 

 

 

呉との話の間にワンクッション。

尚香ちゃんを出してみました。

でもこれがまた結構重要なポイントで。

本陣での戦いが楽しみです。(自分が書くんだろうが)