【この道の上を歩く】
→ 守り抜いた証。
廊下を歩いていて、途中で孫権とすれ違った。
「お前も…毎日ご苦労な事だな」
「これは夏侯惇殿。
いえ…私にはこのぐらいしかして差し上げられる事が
ありませんので……」
彼は手桶を持っていて、それについて訊ねれば『水を替えに行くのだ』と
返事が返ってきた。
そのまま軽く言葉を交わすと、孫権はそのまま廊下を歩いていく。
そして夏侯惇は、今、孫権が出てきた部屋へと向かっていた。
全身に大怪我を負った張遼が運び込まれたのは、もう1週間ほど
前のことになる。
なんとか張遼は一命を取り留めたものの、意識が回復する事もなく
ただ、こんこんと眠り続けている。
張遼の部屋に入れば、その姿は変わる事無く寝台の上にあった。
「……まだ、目は覚めない……か」
ぽつりと苦く呟いて、夏侯惇が張遼の髪に触れる。
孫権から彼が怪我を負った経緯を聞いた時は、酷く驚いた事を覚えている。
「お前が……誰かを庇うとは、な」
蜀軍の猛攻に逃げ場を失い絶体絶命のその時に、張遼は張コウを庇ったのだと、
そう聞かされて。
正直この張遼という男が、そこまでこの魏の武将達を認めているとは思わなかった。
どこか孤独を纏う、その雰囲気はどれだけ時間を経ても消える事は無いと
思っていたのに。
何処かで、それを取り除く何かがあったのだろうか。
早く仲間内に溶け込んで欲しいと願っていた夏侯惇にとっては、それは驚きであり、
そして嬉しくもあった。
だが、それでこの男が死んでしまっては元も子もないだろう。
「…死んでくれるな、文遠」
まだ終わるには早過ぎる。
そっと指先を頬を辿るように滑らせると、その頬が僅かに強張った事に気づいた。
「……文遠……?」
ぴくり、と睫が小さく震えた。
薄く薄く、瞼が持ち上がる。
「……元……譲……?」
まだどこか焦点の定まらないその瞳が、夏侯惇を捉えた。
「………あ……」
「どうした?」
「そう、か………生きて…いたか……」
「おいおい」
少し間を置いてから出た言葉に、夏侯惇が苦笑を浮かべる。
「いや…戦場に居た筈なのに……目を開ければ元譲殿の姿が
あったから……、一瞬、黄泉にでも来てしまったかと思った」
「悪い冗談は止せ」
「そうか……私は、生きているのか」
「ああ、そうだ」
「……張コウ殿は?」
「無事で居る。
お前がそんなだから、気に病んでしまって随分落ち込んでいるがな」
「へぇ……あの、張コウ殿が……」
「えらく含みのある言い方だな」
そう答えて思わず声を上げて笑った夏侯惇に、つられるように張遼も
口元に笑みを乗せる。
笑う余裕もあるなら、大丈夫だ。
そう判断した夏侯惇が、緩く吐息をついた。
「張コウ殿には、悪い事をしたな」
「そう思うなら早く治ってやる事だ」
くしゃりと一度張遼の髪に触れると、座っていた椅子から立ち上がった。
「ほら、今無理をする事もないだろう。
もう一度、ゆっくり眠った方が良い」
「……悪い、」
夏侯惇の言葉に目を閉じた張遼が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「もう、こんなドジは踏むまい……」
「…何を!」
思わず抗議しようと開いた口は、張遼の口元から漏れる安らかな寝息に
遮られた。
「……全く、お前という奴は……」
代わりに漏れたのは、呆れた吐息と、苦笑。
その戦禍を目の当たりにした徐晃は、こう言っていた。
あの大爆発は言葉にできない程凄惨なもので、実際徐晃は二人の死を
覚悟していた。
なのに予想に反して二人とも生還したという事は、それはもう奇跡であり、
紛う事無く張遼の戦功である……と。
「さて、俺も医師に言ってきてやるか……」
張遼の目が覚めた事を伝えて、それから彼の身を案じていた者達にも
教えてやらなければならないだろう。
ふと視線を張遼の方へと向ける。
その寝顔は、穏やかだった。
「……全く、人の気も知らないで、お前という奴は……。
一緒に孟徳の天下を見ると言っただろう?
俺の知らない所で勝手に死ぬのは許さんぞ」
だけど、それでも。
彼が仲間を庇ったと聞いた時は、本当に嬉しかったのだ。
彼も変わったのだと、実感できたから。
それは、彼が仲間を認めたという事であって、彼はもう自身が独りであると
思っていないという事であって。
「……よくやったな、文遠」
耳元にそう囁くと、夏侯惇は軽く張遼に口付けた。
<終>
2009年1月 再アップ。
元は自作の配布お題に挑戦していた時に書いたもの。微妙に改編アリ。
惇兄と張遼。
そういえばこの2人は既に出来上がってるんだったか…?(笑)