「では、これとこれ……それから、これも。
 明日までにな、頼んだぞ」

司馬懿が次々と自分の手に書簡を押し付けてくる。
それらを突き返すこともなく、張コウは苦笑を浮かべた。

 

 

 

 

<道程>

 

 

 

 

 

 

あれからまた少しの時が過ぎ、季節が変わろうとしていた。
あの戦で受けた傷も、ほぼ塞がってきている。
待ち人は、まだ帰っては来ない。
自分はというと、司馬懿にこき使われている日々。
ひとつ仕事を終えると、また次の仕事をその場で言い渡される。
朝早くから、夜遅くまで。
「全く…優秀な頭脳を持つのも考えものですねぇ…」

 

だけど、それが自分に考える暇を与えない為の、司馬懿なりの気遣いだと気付いたから。

 

あえてそれを断る事もなく、甘んじて受けている。
この状況が有り難いと思う事もあった。
気持ちの上で、随分助けられていると感じた。
「さて…もう一働きしましょうか」
手元の書簡に視線を落として、張コウは司馬懿の部屋を出た。
もう夜も随分と更けている。
後は、自分の部屋でやろうと。

 

 

 

 

廊下を歩く足を止めた。
そういえば、司馬懿の部屋の前は…と思い、空に視線を走らせる。
闇夜にぽっかりと浮かぶ満月が目に入った。
「やはり…ここからの眺めは最高ですねぇ…」
綺麗な微笑みを象って、張コウが暫し月に見惚れる。
だがやはり、思い出すのはいつもあの人の事だった。
「……いけない、仕事をしなければ」
あんまり眺めていると、また徹夜仕事になってしまう。
苦笑を浮かべて張コウは書簡を抱え直すとまた歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

階下に下り、角を曲がる。
自分の部屋の前に人影を認め、張コウは目を細めた。
そこに蹲るようにして座り込んでいる人影は、近寄ってもなお微動だにしない。
静かにゆっくりと、歩く。
ぼんやりと空を眺めるようにしてそこに居座る人の視線を真正面に立ち遮って、
張コウはうっすらと笑みを浮かべた。

 

「………どうしたのです?
 随分とまぁ、ボロボロになって……」

 

「ああ…張コウ殿、ですか」
蹲った人が、口を開いた。
「どうして…此処に、いらっしゃるのです?
 貴方のお部屋は向こうでしょう?」
思ったより、落ち着いていると自分でも解る。
じっと見つめると、相手が苦笑を浮かべた。
「そうなのですが…貴殿に、一番に伝えたいことがありましたので」
そういう相手に視線を合わせるかのように張コウはしゃがみ込み、
その顔を覗き込むようにじっと見つめて首を傾げた。
「何でしょうか?」
そう言って小首を傾げる張コウの頬に手を伸ばして、相手は穏やかな笑みを浮かべた。

 

「ただいま帰りました。
 遅くなって……申し訳ない」

 

書簡が、乾いた音を立てて廊下を転がる。
きつく相手を抱き締めて、張コウが絞り出すように声を出した。
「ずっと…ずっと、お待ちしておりましたよ……」
熱を持った腹の傷が鈍く痛むがそれには構わず、彼は張コウの背に手を回した。
隣に立つといつも感じていた香の薫りを身近にして、気持ち良さそうに目を細める。
帰りたかった場所は、此処だった。
「随分と…お待たせしてしまいましたな……」
その呟きに、張コウはただ首を横に振った。
少し目元に滲んだ涙もそのままに、ふわりと笑みを浮かべる。

 

「お帰りなさい……徐晃殿」

 

 

 

 

 

その綺麗な笑顔も。

穏やかな眼差しも。

優しく降る口付けも。

 

全部、手を伸ばせば届く所にあるから。

 

 

 

 

沢山の『ありがとう』と、

 

ほんの少しの『寂しさ』と、

 

痛いぐらい溢れ出る『想い』と、

 

そして、目の前に『貴方』が居るから。

 

 

 

 

ずっと焦がれていた、帰りたかった場所へと。

漸く。

 

 

 

赤兎の嘶きが、聞こえた。

 

 

 

 

<終>

 

 

 

<INVOKE>
<Tide Moon River>
<THUNDERBIRD>
<Pied Piper>
...and lots of music.

by T.M.Revolution

very very Thanks!!!

 

 

The end.

 

 

2008年1月 再録

 

⇒『道標』に続きます。