「……行かなければ」
小さく呟きを漏らし、徐晃はゆっくりと立ち上がった。
腹の傷は痛むが、出血自体はさほど酷くない。
まだ、歩けそうだ。
「有り難うございます、馬超殿、趙雲殿」
門の向こうの2人に頭を下げ、徐晃は歩き出した。
今はもう故郷とも思える、懐かしいとさえ感じる、
仲間達の待つ、あの国へと続く……長い長い、道程を。
<道程>
「………全く……仕方ありませんね」
長く重いため息をつくと、諸葛亮は踵を返して歩き出す。
「諸葛亮…殿?」
何処へ、と問おうとすると、諸葛亮が振り返った。
その剣呑な眼差しに、馬超が言葉を詰まらせる。
「帰るに決まっているじゃありませんか。
徐晃殿は逃げてしまいましたからねぇ…もうここに居ても
仕方ありませんし」
「では……」
「ですが、」
ホッとしたような馬超を尻目に、怖いくらいにこやかな笑みを浮かべて
諸葛亮が言った。
「貴方がたの事を許したわけではありませんよ?
それなりの仕置きは覚悟なさって下さいね」
「……………やっぱり」
楽しそうに笑いながら去っていく諸葛亮を見遣って、馬超はがくりと項垂れた。
だが、捕まるわけでもなく放置されたこの状態を見る限りでは、
許されたと言っても過言ではなかっただろう。
ふと趙雲の事を思い出し、戻ろうと馬超は一歩門から離れる。
閉ざされたそれに暫し視線を送り、コツンと指で弾くように叩いて
馬超はもう一度呟いて、笑った。
「達者でな、徐晃殿」
次に会う時は、敵同士だとしても。
最後の兵士を地に叩きつけて、趙雲は奪った槍を地に放った。
「これでは肩慣らしにもなりません」
「やはり、その程度ではどうにもならんか」
趙雲の言葉に関羽も笑みを浮かべる。
相手が趙雲だと知った時から、勝負などとうに解り切っていた。
生半可な衛兵などでどうにかなるような男ではないし、
そもそも自分が彼と剣を交えるつもりもない。
「はいはい、そこまでにしましょう」
ぱんぱん、と手を叩く音がして、そっちに目を向けると諸葛亮が歩いてくる。
「…諸葛亮殿」
問うような関羽の視線に、諸葛亮が肩を竦めた。
「逃げられましたよ、残念ですが」
「そうか……」
その言葉に低く唸って、関羽が落胆の表情を見せる。
「全く、お前達にはしてやられたな」
今一つ言葉に現実味がなく呆然と聞いていた趙雲の頭を、関羽が軽く叩く。
漸く馬超が上手くやったのだと知って、趙雲が笑みを浮かべた。
「嫌ですね。
こちらに不利な影響を与えたというのに、その嬉しそうな顔ったら」
じと、と諸葛亮が睨むと、趙雲が慌てて姿勢を正す。
その時、馬超が通りの向こうから走ってきた。
「子龍!!」
「孟起、徐晃殿は……」
「大丈夫だ。問題ない!」
「何が大丈夫ですか!!」
いつになく張り上げられた諸葛亮の厳しい声に、趙雲と馬超が驚いた顔を向ける。
「いいですか、貴方がたのした事は紛れもなく罪なのですよ。
本当は然るべき処置をしてやらねばなりませんが……そうですね、
今回は大目に見て差し上げましょう」
「え、それでは…」
思ってもみなかった言葉に、趙雲が驚いて目を見張る。
「明日から、2人とも私の部屋に来て下さい。
向こう一週間、しっっっかりとこき使ってあげましょう。
無論…今度は逃がしはしませんからね、2人とも……」
「…………。」
二の句も出せずに、そう告げて去っていく諸葛亮の背を呆然と2人は見送る。
去り際、関羽は一度振り返ってニヤリと笑みを浮かべた、
「牢に放り込まれて三日間飯抜き、の方がマシだったかもしれんな…?」
『あの』諸葛亮の小間使いなどするぐらいなら。
我慢できなかったか、大笑いをしながら関羽も諸葛亮について歩いていった。
「まいったな……」
苦笑して、趙雲は馬超を見遣った。
諦めたようなため息を落として馬超が地面に座り込む。
そっちに視線を送って、趙雲は彼の肩に矢傷があるのを知った。
じんわりと服から血が滲み出している。
「孟起、肩…」
「ああ…このぐらい、どうって事はない」
静かに笑みを称えて馬超が言った。
「何だか…終わったなぁ、って気がするな…」
「ああ…」
趙雲も向かい合うように座って、被っていた笠を外した。
もう必要はないだろう。
馬超も同じように笠を取り、漸くお互いの顔がきちんと見えるようになって、
2人は顔を見合わせると同時に吹き出した。
何が可笑しいのかは解らなかったが、無性に笑い出したい気持ちだったのだ。
「徐晃殿は大丈夫だろうか…」
「彼なら、きっと帰れるさ」
馬超の呟きに趙雲が笑みを浮かべつつ答える。
運の神様がきっと味方してくれている。
どこか納得したように頷くと、笠を手で玩びながら馬超が言った。
「…行くか」
「そうだな」
二人同時に、笠を高く放り投げる。
「帰ろう!」
門から一里ほど離れた所で、徐晃が歩みを止めた。
前方に人影を認めたからだ。
追っ手かと思い、自然と武器を握る手が強くなる。
しかし、その表情も相手に近づくにつれ驚きが顕になった。
「………よっ、」
「ちょ、張飛殿っ!?」
まさか彼が居るとは思わなくて、素っ頓狂な声を上げる。
それに苦笑を浮かべて、張飛は徐晃に近づいた。
「やっぱり、帰るんだな」
「ええ…できれば止めないで頂けると有り難い」
「止めねぇよ、俺はただの使いだからな」
ははは、と大きな笑い声を上げて張飛は笑った。
ならば何用で…という徐晃の問いで、思い出したように張飛は徐晃に向き直った。
「関兄から伝言と、渡すものがあってな」
「は……?」
きょとんとしていると、張飛はまだ笑いつつ手元にあった手綱を引っ張った。
出てきたものに、徐晃は驚愕の声を上げる。
「………赤兎!?」
「ああ、関兄がよ、もしもアンタがここまで辿り着けたら渡してやってくれって」
「関羽殿が……」
「アンタ、自分の国まで歩いて戻ったら一体どれだけ時間がかかると思ってんだ?
それに…………速い方が良いだろ?」
「そ、それは、そうだが……」
差し出された手綱を戸惑ったままで受け取って、徐晃は張飛を見た。
目が『どうして』と尋ねている。
先刻までは妨害しようと立ちはだかっていた筈の関羽が、何故。
それに気付いた張飛が、また笑った。
「アンタが本当にそう望むなら、止めねぇって」
目を見開いて、徐晃は言葉をなくしたまま張飛を見遣った。
「けど、その赤兎は返せってさ。
どうせまた戦場で会う事もあるだろうから、その時にでも」
「ああ………」
嘆息にも似た返事をして、徐晃は目を伏せた。
皆の温かい心が、こんなにも。
鼻面をそっと撫でると、赤兎は顔を摺り寄せてきた。
「ああ…有り難くお借りする。
次に会うその時まで、大切に」
不覚にも、涙が出た。
そのまま黙って俯いていると、張飛の大きな手が乱暴に頭をかき混ぜてくる。
「次は多分戦場だ。
それまで元気でやれよ、な?」
胸が、苦しい。
今まで沢山の別れを経験してきたが、こんなに辛いと思った事などなかった。
手の甲で目元を拭うと、徐晃は赤兎に跨る。
そして、張飛を見た。
「貴殿らの心遣い、優しさ、決して忘れはしませぬ。
例え国を隔て剣を交えようとも、この恩義だけは…決して。
仲間にはなれなかったが……我等は、友だ」
「………おぅ」
徐晃の言葉に張飛も満面の笑みを浮かべ、差し出された手を強く握った。
「関羽殿、趙雲殿、馬超殿……そして、諸葛亮殿。
皆に宜しくとお伝え下され」
「ああ、次に会う時まで死ぬんじゃねぇぞ?」
「貴殿こそ」
漸く笑みを浮かべ、徐晃は赤兎に鞭を入れる。
高い声で嘶くと、赤兎はゆっくりと走り始めた。
「あ〜あ…行っちまったか」
さすがに赤兎が駿馬と称えられるだけの事はある。
あっという間に姿が見えなくなって、張飛は夜空を仰ぎ見た。
不思議と、寂しさなどは感じられなかった。
ここから城まで一里とちょっと。
左手には、愛飲している酒の瓶。
今は気分もすこぶる良くて。
馬は渡してしまったから、帰りは自分の足でしか。
「ちょっとばかり………散歩でもするかなァ」
酒を一口喉を滑らして、張飛は上機嫌で帰路についた。
<続>