<道程>
遠くで、近くで、戦いの音が聞こえる。
ここは、戦場。
徐晃はそっと、張コウの肩を押し戻した。
「……徐晃殿?」
「張コウ殿、拙者はまだ帰る事ができません」
「何を…」
「まだ、やらねばならない事があります」
「…捕まってなお、何をやらねばと仰るのですか?」
「此処には、馬超殿をお救いするために参ったのです。
これから拙者は、彼を連れて戻らねばなりません」
「…そのような事……っ!!」
徐晃の腕を掴んで抗議しようとした時、張コウの膝から力が抜けた。
「張コウ殿っ!?」
腕を掴まれていたため一緒に地に膝をつき、徐晃は慌てて張コウを見上げた。
「…困りましたね、少々、血を流し過ぎたかもしれません」
軽くそう答える張コウの顔は、普段から色白なのに加えて一層青く見えた。
徐晃はゆっくりと近くの樹の傍まで連れて行き、それに張コウの背を凭れさせる。
槍傷に触れようとした時、張コウに止められた。
「徐晃殿、戻って来る気がないと言うのであれば、これ以上私に
構わないで下さい」
「……そういう訳にもいかぬであろう?」
些か気を害したような表情で強く言い放ち、尚もその傷を見ようと伸びてくる
徐晃の腕を、張コウは強く掴んだ。
座り込んだままそれを引き寄せると、今度も簡単に腕の中に収まった。
「……張コウ殿」
「これ以上優しくされると、何が何でも連れて帰りたくなります」
「張コウ殿……拙者は、」
「でも、貴方は帰って来て下さらないのでしょう?」
一度言ったら聞かないのだから。
半ば諦めたような目で見てくる張コウに、徐晃は困ったように表情を曇らせた。
帰りたい。
本当は、帰りたいのだ。
「張コウ殿、」
この上もなく真摯な目を見せられて、張コウは言葉に詰まった。
「拙者が今まで無事で居られたのは、蜀という国の中でも
助けてくれた者がいたからなのです。
受けた恩には報いる、それが拙者のやり方です」
「貴方って人は……」
重くため息をついて、張コウはゆっくり目を閉じた。
自分の気持ちは彼に届かないのだろうか。
「張コウ殿…解って下さい。
通すべき筋は通したいのです。
そうでなければ、拙者はこの国に背中を向ける事ができませぬ」
「……本当に」
はぁ、と吐息と一緒に声が漏れる。
こつんと張コウの額が徐晃の額に触れた。
今、とても近い位置に在るのに、こんなにも遠いなんて。
「貴方は強情な方なのですよね。
一度決めたら、人の話は聞いては下さらないのですから」
なのに、こんなに真っ直ぐに視線を投げられると。
徐晃自身の願いならば無理強いしたくないと思う自分と、
攫ってでも連れて帰りたいと思う自分とが、胸の内で葛藤を繰り返して。
「貴方のそういうトコロが、とても憎らしいですよ」
それと同じだけ、愛しいのだけれど。
額を合わせたまま徐晃を抱く腕に力を込める。
今度は、拒まれる事はなかった。
強く求めたのは、張コウ。
だが、それ以上に願ったのは、徐晃だった。
「…徐晃殿」
「はい」
「必ず帰って来て下さいますか?」
今、自分の顔は酷く情けない表情をしているかもしれない。
「待っていても、構わないのですか?」
「貴殿が待っていて下さらなければ、拙者は何処へ帰れば良いのか
解りませぬ」
降ってきた、優しい言葉。
「拙者の心はいつも、魏の国と…貴殿の傍に在ります」
「徐晃殿……」
「必ず、帰ります。
ですから……今だけは、我侭を言わせて下され」
そう言われて、張コウは暫し徐晃の顔を見遣った。
迷いの無い目を見て、張コウは僅かに微笑む。
徐晃の頬に手を添えて、その唇に自分のそれを触れさせる。
そのまま唇を耳元へずらし小さく一言、囁いた。
一瞬、徐晃の目が大きく見開かれて驚きを露にする。
「さぁ……」
張コウが徐晃の肩をそっと押す。
促されるまま立ち上がりはしたが、その徐晃の表情には困惑がはっきりと
浮かんでいた。
「行って下さい、徐晃殿」
「しかし…張コウ殿……」
「私の事は心配無用です。
どのみち、このまま帰らなければ誰かしらが援軍にやって来るでしょう。
見つかっては元も子もありません。
私しか居ない内に、早く」
それでもまだ戸惑う徐晃に、張コウは苛立ちを感じた。
早く行ってくれ。
本当に攫ってしまう前に、行ってしまってくれと。
「行きなさい!!」
いつになく強い口調で言葉が出た。
それに僅かに身を竦ませたが、徐晃は張コウに小さく一礼した。
「しからば……御免」
踵を返すと、徐晃は振り返る事無く馬超の待つ馬の元へと向かった。
今はそれが有り難かった。
こんな情けない姿、いつまでも見られていたくなかったから。
「馬超殿、馬を飛ばしますからしっかり掴まっていて下されよ?」
「……いいのか?奴を置いて……」
「良いのです。
さ……行きますぞ」
徐晃が馬の手綱を握る。
馬は一声嘶くと、その足を少しずつ速めていった。
徐晃の姿が完全に見えなくなると、漸く張コウは重い息をついた。
体の力が抜ける。
「ふふ……、今の私はこの上もなく醜いのでしょうね……」
誰に言うともなく呟いて、張コウは苦笑を浮かべる。
「本当……情けないったら………」
色んな感情が胸の内に渦を巻いて。
涙が、出た。
「……徐晃殿……」
後ろから徐晃にしがみついたままの体勢で、馬超は徐晃の顔を見た。
何かに必死で耐えるように強く唇を噛み締めている。
「徐晃殿……済まない。
助けてくれた事に感謝している、有り難う」
「…礼を言われる程の事はしておりませぬ。
お気になさるな」
「………」
そう言われて、馬超は押し黙った。
大した事がない筈がない。
でなければ、徐晃がそんなに苦しそうな顔をしている道理がない。
それ以上見ていられなくて、辛そうに眉を顰めると馬超は目を伏せた。
口付けと共に贈られた言葉。
『…ずっと、想っていますから』
今ほど、帰りたいと強く切望した事はなかった。
<続>