<道程>

 

 

 

 

「淵!!」

剣を振り上げた時、後ろから腕を捕まれた。
「あ?な……惇兄!?」
何時の間にここまで来たのだろうか、馬を傍に待たせ、夏候惇は夏候淵の傍に
立っていた。
「撤退命令が出た」
「……は?」
一瞬、目が点になって夏候淵は間の抜けた返事をする。
「今張遼が退路を開いている。
 速やかに帰還しろ」
「ちょっと待ってくれよ惇兄!!」
「ああ、それから」
夏候淵の抗議も聞かないふりをして、夏候惇が付け加えた。
「張コウと連絡が取れない。
 お前、ちょっと行って様子を見て来い。
 司馬懿も連れて行くといい」
「……んな勝手な……。
 大体、あの仲達が諸葛亮を前にして、ハイそうですかと言う事聞くと
 思うか!?」
「思わんな」
「だろ?」
「だから、それはお前が何とかしろ」
哀れな従兄弟の肩を労うように叩いて、夏候惇はにっこりと笑みを浮かべた。
だが、目が笑っていない。

 

 

「さっさと行け。」

 

 

「惇兄の阿呆ーーーーーーー!!!!!」
そう叫びながら、夏候淵は夏候惇の乗ってきた馬に跨ると一目散に駆け出した。
「あっ、俺の馬……!!
 あの野郎……」
その後姿をしかめっ面をしたまま見送って、夏候惇は未だ座り込んでいる趙雲に
目を向けた。
「武将として戦場で死ねなかったのは…不毛か?」
地に突き刺されている槍を引き抜いて、趙雲に差し出す。
それを素直に受け取って、趙雲は苦笑を浮かべた。
「そんな事はありません」
「それなら良い」
人好きのする笑顔を見せて、夏候惇は撤退を始める自軍を見遣った。
「とりあえず今回は退く。
 そっちも余り変な真似はせん方が良い」
「…どちらにしろ、こちらの劣勢でしたから。
 それだけの余力は正直残っていないでしょう」
「…ところで、ついでだから聞かせろ」
「は…?」
立ち上がりながら、趙雲は夏候惇の方に目をやる。
「徐晃はどこだ?」
それに思わず趙雲の口元から笑みが零れた。
「本当に……貴方がたは……」
「あ?」
「その質問をされたのは、3度目です」
そう答えて趙雲は西を指差した。
遠く向こうに広がる森が見える。
「徐晃殿は、西へ我らの仲間を救出に向かわれました」
「…そうなのか」
「いけませんね、徐晃殿はお人好しの上に嘘は吐けない方なので、
 つい甘えてしまいます」
「そうか、西か」
それだけ聞くと、敢えて何も言わず夏候惇も帰還しようと踵を返す。
それを趙雲が呼び止めた。
振り返ると趙雲はそこで待てと言って走って行き、自分が乗っていた馬を
連れてきた。
「これをお使い下さい」
「……助かる」
自分のは夏候淵が乗って行ってしまったので、夏候惇は有り難く申し出を受けた。
歩いて戻ったのでは、辿り着くのは一体いつになる事か。
馬に乗り去っていく夏候惇の背に一礼して、趙雲は西の森に再び目をやった。
「孟起……無事で帰って来いよ……」

 

 

 

 

馬を走らせながら、夏候惇はもう一度先刻聞いた話を反芻する。
「西か……」
確か、西は。
という事は、もしや。

「…………んん?」

訝しげに眉を顰めて、夏候惇は首を傾げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

司馬懿と諸葛亮が対峙する。
実力はほぼ互角と言って良かった。
そうなれば、どちらかが力尽きるまでぶつかり合うのみ。
「…なかなかやるじゃないですか…」
「フン、そっちもな」
諸葛亮の言葉に薄く笑みを浮かべて、司馬懿は黒扇を構えた。
暫く睨み合いが続いた後、急に背後がざわめき始めた。
そして、近付いてくる馬の蹄の音。
「……なんだ?」
そっちの方にちらと司馬懿が視線を投げた瞬間だった。

 

「余所見はいけませんよ?」

 

ふと、諸葛亮が笑みを浮かべた。
「しま……っ!!」
衝撃が来る。
司馬懿が慌てて防ごうとしたが、間に合わない。
「仲達!!」
瞬間、襟首掴まれたと思うと、フワリと体が浮いた。
「おっと…危ねェ危ねェ」
気がつくと馬上に引っ張り上げられていた。
「……妙才、殿」
「間一髪だったな」
「何が間一髪だ」
ぺし、と音を立てて司馬懿が黒扇で夏候淵の頭をはたく。
「貴様のせいではないか!」
「おっとそうか、悪ぃ悪ぃ」
夏候淵が苦笑を浮かべて誤魔化し、諸葛亮を見遣った。
「悪いな、今日はここまでだ」
「な…!!」
驚いて声を上げたのは、司馬懿の方だった。
「何を言っている!!
 もう少しで仕留められそうだったのに!!
 早くここから下ろせ!!」
そう怒鳴りながら暴れるのを押さえつけて、夏候淵は笑った。
「撤退させてもらうぜ、じゃあな!!」
言い放って、馬を方向転換させる。
突然現れ司馬懿を攫った状態で風のように去って行った夏候淵を、
諸葛亮は半ば呆然と見ていた。
「諸葛亮殿!!」
「あ…趙雲殿」
そこへ漸く諸葛亮を捜し当てた趙雲が駆け寄ってきて、諸葛亮は
漸く我に返った。
「怪我はありませんか?」
「ええ…大丈夫ですよ」
落ち着くと、笑いが込み上げてくる。
「どうされました?諸葛亮殿…」
「…いえ、何でもないのです」
くつくつと小さく笑い声を零しながら、諸葛亮は戸惑う趙雲を
手で制した。
「あの司馬懿殿が、すっかり彼のペースではありませんか…」
白扇を仰ぎ自身に風を送りながら、諸葛亮は呟いた。
「ですが…そういうのは、嫌いではありませんよ」
「どうされますか?」
「折角退いてくれたのです。
 今回は我々も退きましょうか」

 

 

 

 

 

 

「何の真似だ、妙才殿!!」
明らかに怒気を含んだ声音で司馬懿が問う。
「しょうがねぇだろうがよ、殿からの命令だぞ?」
「全く、何を考えているのだ殿は!!
 もう少しで勝てるところであったのに……」
「いや、それがよ」
夏候惇から言われた言葉を思い出しながら、夏候淵は言った。
「確か、張コウと連絡が取れないから様子を見て来い…だと」
「は……?」
訝しげに眉を顰め、司馬懿は夏候淵の方を振り返った。
「それは本当か?」
「ま、惇兄ィが言うんだから、多分本当だろう」
「く……。
 あやつめ、失敗したのではあるまいな……!!」
強く親指の爪を噛んで、司馬懿が低く唸った。
じっと前を見据えて夏候淵が答える。
「だから、それを確かめて来いって言うんだろ」
「フン……」

 

 

馬は真っ直ぐ自軍の本陣の方へと下り、
途中で進路を変えて、西へ伸びる道に入っていった。

 

 

 

 

 

 

<続>