<道程>
背後の兵士達の動きが変わった。
趙雲と打ち合いながら、夏候淵はちら、と背後に視線を走らせる。
だが、その動きだけでは何が起こったか察する事はできない。
「余所見をするな!!」
「おっと!!」
趙雲の攻撃を慌てて剣で防ぐ。
今度は真っ直ぐ趙雲を見た。
「………?」
どこか、余裕がない。
いつもの猛者振りはどこへやら、今日の趙雲はどこか手も足も急ぎ足だ。
「何か…あったのか」
それが何かは解らないが。
小さく首を捻って夏候淵は剣を上段に構えた。
今の奴なら、確実に勝てる。
以前、長坂で戦り合った時が嘘の様に、その動きには覇気がない。
「ああ……そうか」
じっと趙雲の方を見て、夏候淵は小さく呟いた。
アイツと同じ目ェしてやがる。
突き出される槍を難なくかわしながら、相手の隙を窺う。
顔面を狙い突いてきた切っ先を首だけ左に寄せてかわすと、剣を逆手に持ち替えて
趙雲の手の甲を狙った。
「もらった!!」
固い音がして、槍が後方へと飛んでいく。
思いもよらなかった結末に、趙雲は暫し呆然としていた。
「…張り合いねぇなぁ…。
心配事抱えたままこんなトコに出て来るからだ」
「な…、何を…!!」
剣の鞘で肩をぽんぽんと叩き、飛んでいった槍を拾ってきて夏候淵は言った。
「今、お前みたいな目してる奴が、うちにも一人居るんでな。
どこか放っとけねぇんだけど……でもよ、」
その槍を足元の地面に深く突き刺す。
「やっぱり戦なんでな、その首貰ってくぜ」
そう言って、夏候淵は笑った。
「殿!どうしてここへ!?」
張遼が驚きを隠せないまま、曹操の元へと走り寄る。
「緊急事態だ」
その問いに、思わず曹操が苦笑を浮かべた。
「関羽よ、ここは潔く兵を退いてはもらえんか?」
「殿……!?」
漸く我に返ったのか、関羽が戟を手に曹操を見遣る。
「我が国に何をしたか、お忘れか?」
「まさか。そのせいで徐晃は捕われたのだ。
これでも責任は感じておる。
…しかし」
関羽の視線を真っ向から受け止めて、曹操が告げた。
「これは、戦だ」
「…詭弁だな」
「ああ、詭弁だ。
……いや、それで構わんのだ。
詭弁だろうが何だろうが、それで儂らには攻め入る理由ができた。
……できていた、と言った方が良いな」
「それで?」
「徐晃を取り戻すつもりだったが…事情が変わった。
関羽よ、ここは兵を退け。
我々も此度はここを撤退しよう」
「…くだらんな」
「できんというのであれば………仕方が無い。
このまま攻め進むのみだが?」
鼻で笑う関羽に、しかし曹操はどこか自信ありげな笑みを見せた。
「今、我が軍が蜀の本陣を完全に包囲している。
許チョ、夏候淵、司馬懿、于禁…儂が誇る指折りの精鋭共だ。
逆にそちらの守りは諸葛亮、張飛、趙雲と聞く。
落ちるのは時間の問題だと思った方が良い。
ああ……それにもう一人忘れていたな」
「…そういえば、」
今まで二人の話をじっと聞き入っていた張遼が、思い出したように口を開いた。
「殿がこちらにいらっしゃるというのに、夏候惇殿の姿が見えませんが…?」
その言葉に、曹操が口の端を吊り上げながら視線を関羽に投げた。
「どこに居ると思う?」
関羽の顔色が、変わった。
「まさか…!!」
「隻眼の猛将は儂の誇りだ。
さぁ、関羽……決断せよ」
唇を噛み締めて関羽が唸りを上げた。
暫く考え込むようにしていたが、やがてゆっくりと顔を上げる。
「ここは、退かせて頂こう」
「…懸命な判断だ」
満足そうに頷くと、曹操は馬の手綱を操って後ろを向かせた。
頷くと、張遼も関羽に一礼して馬に跨る。
傍にいた兵士に撤退の命を告げると、二人は馬に鞭を入れた。
「…やられたな」
その姿を見送りながら、関羽はそう呟く。
「関羽殿!!」
漸く楽進軍の包囲から抜けた姜維が、馬を走らせ駆け寄ってくる。
「魏軍が撤退を始めているのですが…」
「ああ、構わん。
我々も退くぞ、本陣の救援に向かう」
「え…?」
「…最初から、我々には選択肢がなかったという事…か。
まんまとハメられたな。
やはり曹操殿は相当な食わせ者だ」
姜維の驚きも余所に、関羽はそう言って首を振った。
「殿!!」
後ろから張遼が追い上げてきて、曹操の隣に並んだ。
「このまま撤退して良いのですか!?
今なら蜀本陣まで攻め入れそうなものを……!!」
「緊急事態だと言っただろう」
馬を張遼の真横まで近付けて、曹操は身を乗り出して耳打ちするように囁いた。
「西からの連絡が途絶えた。
何やら胸騒ぎがしてしょうがない。
元譲が淵らの方に撤退の命を伝えに行った。
張遼、お前も手伝いついでに誰か救援に向かわせろ」
「西…張コウ殿ですか」
目を細めて、張遼が空を仰いだ。
「ならば私が加勢に向かいますが?」
「いや……司馬懿に行かせろ。
あいつはそうでもせんと言う事を聞かんだろうからな」
「ならば、夏候淵殿にも同行してもらった方が宜しいですな」
その言葉に曹操が頷いた。
「これ以上…奪わせるな」
「…解りました。
では、私は先に参ります」
そう言うと、張遼は更に馬に鞭を入れ先を急がせる。
「無事で居れば良いのだが……」
ふぅ、と小さく吐息をついて、曹操は苦しげに独りごちた。
<続>