<道程>
眼下に広がる光景。
ぶつかる人間の群れと、風に乗って聞こえてくる剣戟の打ち合う音、悲鳴。
「徐晃殿、貴方も行きたいのではありませんか?」
隣に立つ諸葛亮の言葉に、居るべき場所に居られないという苛立ちを抑えながら
徐晃は首を横へ振った。
「拙者が武器を奮うのは、この国の為ではござらん」
その答えに諸葛亮はただ苦笑を浮かべて肩を竦めるだけであった。
「先程、伝令から聞いたのですが…、
向こうの先陣は、弓の名手と名軍師殿だそうです」
「司馬懿殿が…?」
らしくない行動に徐晃は信じられないと首を振った。
「死に急がれるおつもりか…!?」
「それだけ、向こうも必死なのでしょう?」
思いがけない言葉に徐晃が視線を隣へ向ける。
穏やかに微笑んで、諸葛亮は白扇を扇いだ。
「貴方を取り返そうと、必死なのですよ」
「馬鹿な…」
「……そうですか?
あの軍師殿にしては、人間らしい選択じゃありませんか」
そう答えて声を上げて笑う諸葛亮に、徐晃は眉をしかめた。
「諸葛亮殿は何を楽しんでおられる?」
「…楽しい?」
きょとんとして諸葛亮は徐晃を見つめる。
だが、それはすぐに笑みに彩られた。
「ええ…楽しいですよ、とてもね…」
「諸葛亮殿は何を考えていらっしゃるのか、全く読めませんな…」
「別に、」
人と人とがぶつかり合い立ち上る砂埃に目を細めながら、諸葛亮は呟く。
「何も考えていないだけですよ…」
次々と、戦況を知らせる伝令が諸葛亮の元へと集まる。
「報告!!
姜維軍が夏候惇・楽進の両軍に挟まれ苦戦している模様!!
至急、援軍を要請します!!」
「そうですか……やはりあの隻眼の将軍は侮れませんね」
困ったような口調だけでそう呟く。
何かを思案するかのように首を傾げている諸葛亮を、徐晃は
どこか不思議な気持ちで見ていた。
緊迫感が無い…というよりは、やはり楽しんでいるような気がして
仕方ないのだ。
「では関羽殿、援軍に出て頂けますか?」
「承知した」
諸葛亮の言葉に軽く頷いて関羽は兵を纏めに向かう。
徐晃の傍を通り過ぎる時に、彼は足を止めた。
「やはり、貴殿の国は手強いですな」
「……そうでしょう?」
徐晃が少しだけ微笑んで、そう答える。
それに関羽も少し笑顔を見せると去っていった。
「では、今から関羽軍がそちらへ向かうと姜維に伝えて下さい」
「は…!!」
諸葛亮の言葉に小さく一礼して、伝令はまた走り去っていく。
それを見送ってから、徐晃は彼に尋ねた。
「不躾にお尋ねするが…この戦に勝ち目はあり申すのか?」
「さぁ……」
曖昧な返事を泳がせて、諸葛亮は肩を竦める。
「正直、どうなるか見当もつきませんよ。
こちらにとっては、今回の戦は相手の戦力をどこまで削げるのかが
目的の戦いですから。
負けるつもりはないのですが……迷っています」
「迷う…?」
諸葛亮らしくない物言いに、徐晃が眉を顰めた。
「結局のところ貴方をどうするか、まだ決め兼ねているのです」
「報告!!
馬超軍が苦戦しております!!
至急、援軍を要請します!!」
伝令が転がるように駆けて来た。
困ったように諸葛亮が目を伏せる。
それに弾かれる様に顔を上げたのは、趙雲だった。
「それは本当か!!」
「ま、まだ、粘ってはいるのですが…崩れるのも時間の問題かと…」
「私が行く!!」
声を荒げて趙雲が槍を手にする。
しかしそれを、諸葛亮がやんわりと止めた。
「いけません趙雲殿」
「しかし……!」
「貴方が動いては、本陣の守りはどうするのです?」
「く……」
今が機なのでは、と思った。
「拙者が参ろう」
気がつけば、徐晃はそう声を上げていた。
驚いたように2人が徐晃を見る。
「……しかし」
「大丈夫です。
必ず、馬超殿をお救い致そう」
だが、諸葛亮は首を横へ振った。
「私はまだ、貴方を信用しきれておりません。
そのまま逃げられては堪りませんからね」
それに困ったように徐晃は地面へと視線を落とす。
だが、今しかないと思ったのだ。
この機を逃せば次はいつになるか解らない。
そう考えて、もう一度顔を上げると毅然と見据えた。
「必ず馬超殿をお救いし、この場にお連れ致す。
どうか信じて頂きたい!!」
その言葉に、諸葛亮は目を伏せる。
そして一言呟いた。
「貴方は、仲間が斬れると仰るのですか?」
夏候惇は姜維と戦っていると聞いた。
恐らくあの馬超を苦戦へ追い遣る程の男なのだから、
張遼なのか、于禁なのか、それはどちらにせよ。
「……必要とあらば」
静かに、そう答えた。
すると諸葛亮の表情に微笑みが宿る。
伏せていた目を開いて、徐晃の顔を見た。
「では、出陣の準備を。
趙雲殿、彼に500の兵を用意してあげて下さい」
「は…はい!
ですが……」
まだ少し迷う趙雲の耳元に、諸葛亮は口元を寄せて囁いた。
「大丈夫です。
彼は『連れてくる』と言いましたからね。
後は…貴方がそれを信用するかでしょう?」
「諸葛亮殿は信用されると?」
「少なくとも、関羽殿は絶対的な信頼を置いてますしね。
それに…」
少しだけ零れた、柔らかい笑み。
「嘘は苦手そうですし、ね…」
久々の戦だった。
この昂揚感を一体どう表せば良いだろうか。
こういう時に、自分はやはり武人であるのだと、こういう場所でしか
生きてはいけないのだという事を実感してしまう。
主君も、仲間も、大切な友も。
全てを置いてきた所に、この場所があるのだと。
『必ず、戻ってきて下さいね』
自分にそう言った大事な友も、この戦に出てきているのだろうか。
忘れたわけではない。
忘れるわけではない。
ましてや、裏切るつもりもない。
ただ純粋に、闘えるという事に対する昂揚感。
兵が隊列を揃えて待つ場所へ案内しながら、趙雲は徐晃に尋ねた。
「どうして徐晃殿は孟起を助けようと……?」
「何、別に大した理由ではありませぬ。
今しかないと思ったのです、恩を返せる時が」
「え…」
「関羽殿や張飛殿、そして貴殿らにも世話になりましたからな。
その恩に報いたいとずっと思っておりました」
「徐晃殿……」
「ご安心下され。
必ず馬超殿を連れて、ここへ戻って参りましょう」
胸が詰まるような気持ちを、まさに今感じていた。
「ありがとうございます、徐晃殿………!!」
他に言い様も無く、趙雲はそう言ってただ頭を深く下げた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
木々が鬱蒼と生い茂る、まさに『森』という形容に相応しい場所だった。
「これは…充分な注意が必要だな」
外観から見ても、この内と外は完全に遮断されていると見ても良いだろう。
馬超は慎重に軍を進める。
ここに辿り着くまでに敵とぶつかることはなかった。
ならば恐らくは、この森の中での勝負となるであろう。
「…行くぞ」
そう供の兵に告げると馬超は馬に鞭を入れた。
目を閉じて、静かに呼吸を数回。
木々の息遣いを感じて、それに合わせる。
そうやって息をひそめて、張コウは待った。
もうすぐ、この森に一本しかない小道を大軍が通る。
負けるつもりなど微塵もなかった。
「…来ましたね」
ぽつりと小さく呟く。
先頭は案の定、大将が馬を走らせていた。
「おやまぁ…派手な鎧ですね。
煌びやかな佇まいは、決して嫌いではありませんが…」
馬超が張コウの潜む木のすぐ下を通り過ぎる。
その後ろを部下の兵士数名と歩兵たち。
張コウが小さく合図を送ると、その周りの茂みから魏軍兵が次々と姿を現す。
「敵襲!!」
兵士の一人が声を上げる。
それは馬超も予測していた事だった。
「慌てるな!速やかに迎撃せよ!!」
そう叫んで、馬超自身も槍を振りかざし敵兵の中へと突っ込んでいくのを
張コウが上から眺めていた。
この不意打ちが馬超に読まれている事ぐらいは、張コウにとっては予定の内。
「その豪華で荘厳な趣さえ見受けられる鎧、美しいと思いますよ。
嫌いではありません。
………しかし、」
張コウが軽く手を上げると、張コウと同じように木々に身を潜ませていた
数人の兵士が立ち上がった。
そして張コウ自身もゆっくり立ち上がる。
手には弓。
馬超を見下ろし、張コウはうっすらと笑みを浮かべた。
「ですが…目立ってしょうがないんですよね。
命取りになっても知りませんよ」
張コウが真っ直ぐ馬超に狙いを定めた。
夏候淵ほど巧くはないが。
「…さぁ、美しい戦を始めましょう」
そう呟いて、矢を放つ。
一本目を馬超が避けられたのは偶然だと言って良いだろう。
急に頭上から膨れ上がった殺気に、馬超の勘が危険だと告げた。
馬の手綱を離し流れるように馬上から地面へと身を転がす。
次いで襲ってきた二本目の矢を、篭手で辛うじて受け流す。
三本目は頬を掠めた。
「何者!?」
そう声を上げた瞬間、張コウと共に弓を構えていた兵士達に、
自分の傍で果敢に剣を奮っていた味方の兵が、次々と射抜かれていった。
「く…!」
唇を噛んで馬超が睨むように矢の飛んできた方を見遣る。
「躱しましたか、やりますねぇ…。
貴方達はここで味方を援護していて下さい」
弓を携えた仲間にそう指示を出して、張コウは弓を投げ捨てた。
「では、行きますか」
弓は性に合わないと、普段愛用している武器に腕を通し、
張コウは大地へと身を躍らせた。
目の前に、一人の男が舞い降りた。
流れるような優雅な動きに見入ってしまう。
「……誰だ、貴様」
「失礼、私は張コウと申します。
貴方の事は存じておりますよ、馬超殿」
「…俺を知っているのか」
「その美しく輝く鎧、一度見たら忘れませんとも」
着地した時についた土を片手で払いながら、張コウはそう言って微笑む。
落ち着きを取り戻して、馬超も立ち上がった。
一目で相手の力量を量れる程度の力はあると、それぐらいは自負している。
「それでは、お相手願えますでしょうか?」
「…望むところだ」
この男……強い。
槍を構えて、目の前の男を見据える。
馬超の頬を冷たい汗が滑り落ちていった。
<続>