そして、始まりの鐘がなる。

それぞれの、戦いの始まり。

 

 

 

 

<道程>

 

 

 

 

 

 

「…三手に別れる」
武将達が揃う中、司馬懿はそう告げた。
「中央の先陣は夏候淵殿に頼む」
それに夏候淵が頷いた。
「その後詰めは許チョ殿。
 右手の平地からは、張遼殿と楽進殿。
 そして左手の森林は、張コウ殿が」
「…私だけですか?」
意外だったらしく、張コウが驚いたような声を上げた。
「非常に進みにくい地形だが、敵の本陣を叩けそうな場所といえば
 ここしかないからな」
頷いて、司馬懿は周辺の地図を広げた。
「俺はどうするんだ?」
夏候惇の呟きに司馬懿はちらと視線を投げる。
「夏候惇殿は、今回は本陣と殿の守りについて頂く」
「じゃあお前は何を?」
「私は…」
そう言い掛けて、ひと呼吸おいた。
軍師として、この決断は少しだけ勇気のいる事だったけれど。

 

「私は、今回は夏候淵殿と共に先陣を行く」

 

「…はぁ?」
頓狂な声を出したのは、他でもない夏候淵本人であった。
「ちょっと待てってお前、」
「これは決定だ」
物申そうとした夏候淵に、だが司馬懿は冷ややかな言葉を投げただけであった。
夏候淵は半ば呆れたように天井を仰ぎ見る。
「ああ解った。解ったよ。
 一緒に行きゃいいんだろ?」
仕方なさそうに肩を竦めて夏候淵が答えると、司馬懿は満足気に目を細めた。
「張コウ殿は少人数で、左手の森林を速やかに前進してくれ」
「それなんですけど…」
困ったように眉をひそめて、張コウは地図上の敵本陣から森林へ向けて指を滑らせる。
「向こうからこの森を通ってここの本陣へは一本道じゃないですか。
 あちらの軍師殿だって、ここから攻められる事など読んでいるのではありませんか?」
その問いには、司馬懿は軽く一瞥をくれただけであった。
「張コウ殿」
「はい、何でしょう?」
「戦法は貴殿に任せる」
「…そう言うと思いましたよ。
 まったく人任せなんですから」
乾いた笑いを浮かべて張コウが言った。
「ま、何とかしてみますよ。
 ……本気でいけば宜しいのでしょう?」
自信ありげに胸を張って張コウが席を立った。
「では、軍の準備を整えて参ります」

 

 

 

 

 

 

戦自体は久々な事であった。
本来戦うことが好きな夏候淵にとっては、少し楽しみなであったりもする。
ところが今回は何故か、憂鬱そうな表情をしている。
「……あ〜…どうするかなァ………」
鎧を出し手入れをしながら夏候淵は何度目かのため息をつく。
原因は言わずと知れた、あの名軍師の一言。
迷軍師、かもしれない。今は。

 

 

「淵将軍、いらっしゃいますか?」

 

 

軽く扉を叩く音がして、夏候淵は手を止めて振り向いた。
開け放した扉から長身の男が顔を覗かせている。
「おう、どうした張コウ」
「あの…」
言おうかどうしようか迷う、そんな曖昧な表情を見るのもそう
数ある事ではなかったもので。
思わず顔が綻んでしまった。
「何だよ、気になるから言えって」
「実はですね……」
そう前置きして切り出した話は。

 

夏候淵にとっては、何の事は無い相談だった。

 

 

 

 

 

 

「ふむ………それで?」
司馬懿は訓練場に座り込んで、あまり面白くなさそうな表情を浮かべる。
「なんだ、お前もやりてェのか?」
「断る」
苦笑交じりで投げられた夏候淵の言葉に、だが司馬懿は即答で叩き落す。
訓練場では張コウが夏候淵に弓の指導を受けている所であった。
「良いのですか?司馬懿殿。
 私、司馬懿殿より巧くなっちゃいますよ?」
「うるさい」
張コウの挑発も、司馬懿は冷たく流す。
「弓なんて今更指導を受けて、貴様はどうするつもりだ?」
「どうって……」
夏候淵の教え通りに型を取り、弓を番える。
真っ直ぐ向けた視線の先には小さな的がひとつ。
「司馬懿殿が仰ったんじゃありませんか。
 戦法は私に任せると」
淡々と語るが、張コウの視線は的に向けられたまま。
「ああ、言ったな」
「ですから私なりに考えた結果なのですよ、これが」
流れるように手を離す。
放たれた矢は、的の中心に突き刺さった。

 

「……当たるものなんですねぇ……」

 

放った本人が一番驚いている。
「心配なさらないで下さいな、司馬懿殿。
 私は私のやり方で、当然勝つ気でいるんです」
「ふん…言ったな?」
口元にうっすら笑みを浮かべて、司馬懿が立ち上がった。
「ありがとうございます、淵将軍。
 これなら何とかなりそうですよ」
「いいのか?こんなのは付け焼刃だぞ?」
「結構ですよ。どっちみち出陣は明日でしょう?
 時間が余りにもありませんからね」
「そうか」
弓を夏候淵に手渡しぺこりと頭を下げると、張コウは司馬懿に近寄った。
耳元に口元を寄せて、夏候淵には聞こえないようにそっと囁く。
「すみませんね、淵将軍をお借りして」
「な……っ」
「それで先程からご機嫌が悪いのでしょう?」
「……き、貴様……っ!!」
見る間に司馬懿の顔が紅潮していく。
可笑しそうに笑うと、張コウは司馬懿の肩をぽんと叩いた。
「本当に解り易い方ですよ、貴方は」
「五月蝿い!さっさと何処かへ失せろ!!」
「司馬懿殿」
「何だ」
「…勝ちましょうね」
「ふん、『取り返す』の間違いではないのか?」
言われっぱなしは悔しいので、言い返してみる。
どこか嬉しそうに張コウは笑った。
「お互いに、鈍感な人を想うと苦労しますよね」
「…………まぁ、な」
ばつの悪そうに視線を逸らす司馬懿に目を細めると、張コウはもう一度
夏候淵に一礼して訓練場を出て行った。
「……なんだ?」
じっと見てくる司馬懿の視線を感じて、夏候淵が首を傾げる。

 

「鈍感。」

 

一言、そう呟いて司馬懿も踵を返すと訓練場を後にする。
「………な、なんなんだよ……」
後には、半ば呆然とした夏候淵が一人佇むのみであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城門に並んだ数千人の兵。
その先頭に立つ、武将達。
「なぁ、仲達」
「何だ?」
「本気で先陣を取る気か?」
「妙才殿」
「何だ?」
「私一人すら、守る自信がないのか?」
言い返された言葉に司馬懿の決意が固いと知って、夏候淵は苦笑した。
諦めた事が伝わって、司馬懿もうっすら笑みを浮かべる。
「先陣の基本はな、『自分の身は自分で守る』だ」
「…そうか、肝に銘じておく」
夏候淵の言葉に司馬懿が答えて、2人は顔を見合わせて微笑んだ。
「司馬懿殿!!」
馬が駆け寄ってきて、司馬懿の隣に張コウが辿り着く。
「司馬懿殿、私はそろそろ先に参りますから」
そう言われて司馬懿が視線を横へ向けた。
「しっかり取り返してくるんだな」
「最善を尽くしましょう」
にっこりと笑みを浮かべると、張コウは元来た道を引き返す。
そのまま西の方へと走り去っていく。
その後を、ごく近しい部下が数百、続いていった。
「…上手いことやるかな、アイツ……」
その長い隊列を見送って夏候淵がぽつりと零した。
「しくじりでもすれば、私があやつを殺してやる……」
「おお怖ェ」
大袈裟な動作で夏候淵が両手を上げる。
そんな彼に軽く一瞥をくれてやってから、司馬懿は馬に鞭を入れた。
慌ててその後を夏候淵が追いかける。
動き出した先陣の部隊を見送って、張遼が馬に跨った。
その隣には夏候惇が立っている。
「行ったか。
 やれやれ……あっちもこっちも世話が焼ける」
「全くだ」
お互いに重いため息を零して、2人は顔を見合わせる。
「どっちも鈍感で、どっちも屈折してるからな」
「我が従兄弟ながら情けないぞ、淵よ……」
ホロリと泣き真似をする夏候惇に、だが張遼は苦笑しただけだった。
「しかし一番世話の焼けるのは、あの方であろう?」
「ああ……」
お互い頭の中では余裕の笑みを浮かべている男しか浮かんでいない。

 

「殿か」

 

同時に声を発した事に驚いて、夏候惇と張遼は顔を見合わせる。
そしてまた、同時に重苦しいため息をついた。
「さて…それでは行くか」
「…気をつけてな」
夏候惇に見送られ、張遼が率いる軍もゆっくりと動き出した。

 

 

 

 

 

 

「仲達!」
追いかけて馬を隣に並ばせて、夏候淵は呼びかけた。
「お前、やっぱ怒ってんのかぁ?」
「これが怒らずにいられるか、馬鹿めが!!」
蹄の音と湧き上がる怒号と走る足音と剣戟の擦れ合う音。
それらに掻き消されないように、司馬懿は声を張り上げた。

 

「諸葛亮めが……。
 必ず後悔させてやる……!!」

 

 

 

 

 

 

<続>