<道程>

 

 

 

「いいからちょっと待てって!!」
どんどん先へと進む司馬懿の肩を、走って追いかけて漸く
夏候淵は捕まえる事ができた。
結局、外まで出てしまったけれど。
肩を掴まれて立ち止まりはしたが、司馬懿は俯いたまま振り向こうとしない。
諦めたようなため息と共に、夏候淵が呟いた。
「遅かれ早かれ、張コウだって知る事なんだろうが。
 ちょっとぐらい信用してやれよ。な?」
「…………解っているし、信用もしているつもりだ」
「だったらよ、」
「妙才殿」
声をかけられて、逆に夏候淵は押し黙った。
振り向かないまま司馬懿が言う。
「少し、肩を貸してもらえぬか?」
「……別に構わんぞ、ホラ」
その答えにゆっくり振り向くと自分から顔を背けている夏候淵の姿があって、
どこかホッとして、そして嬉しかった。
全部言わなくても自分の欲しいものを与えてくれるのだ。
「…………すまない」
夏候淵の肩にこつんと額が乗せられた。
泣いているのかと思ったが、敢えてそれは聞かないでおいた。
「なぁ、仲達よ」
「なんだ?」
「ひょっとして、徐晃が好きだったりするのか?」
なんとなく、思った事。
普段ならこんなに取り乱したりはしないだろうに。
だが返ってきた答えはなく、代わりに腕を回されただけだった。
「………好き、というわけではないのだが、」
夏候淵のように、皆まで言わなくとも自分を理解してくれる人間は数少ない。
徐晃も、そんな数少ない人間の内の一人であった。
好きというわけではなかったが、確かに気に入っていたのかもしれない。
「何故……今、なのだ……」
絞り出すような押し殺した声。
しかしその言葉は、確実に夏候淵の心に届いてきた。

 

 

何故、今なのか。

むしろこれでは……

 

 

「そうか………」
津波のように色んな事が急激に押し寄せてきていたので、見落としていたのかもしれない。
「そうだよな。何で、今なんだ?」
「………妙才殿…?」
「なぁ仲達。何で今なんだ?
 いや『今』なのは偶然なのかもしれないが……」
言わんとしている事の意味が汲み取れずに、司馬懿は驚いた表情で目の前の男を見上げた。
「例えば、あくまでもこれは、例えばの話だが、」
「………ああ」
「俺が誰か蜀の武将を捕らえてきたとしよう。
 だが、そいつはこっちに降る気なんか全くない。
 殺しちまえば一番早いが、それもなんか勿体無ェだろ?
 で、例えば」
その後は、言わなくても伝わったのだろう。
司馬懿が後を続けた。
「例えば、私ならその者をどう利用するか……か?」
「そういうこった。
 どうも俺は徐晃が死んだっていう気がしねぇんだよ。
 ひょっとしたら、そこに答えがあるかもしれないと思ってなぁ……」
頷く夏候淵に、司馬懿は苦々しく舌打ちをした。
諸葛亮の卑劣さよりも、己の愚かさを。

 

「…私は少々、冷静になる必要がありそうだな…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

場所は変わって、夏候惇の自室。
張遼は大体のいきさつを夏候惇に話して聞かせていた。
「……そうか、徐晃が……」
驚きを隠せない表情で、夏候惇がぽつりと呟く。
「だが、」
張遼が首を捻って呟く。
「どうも、何かが引っかかるのだ」
「何がだ?」
「それが解れば苦労はしないのだがな」
苦笑を浮かべて張遼が首を横に振った。

 

「何を面白そうな事を話しているんだ?」

 

突然、入り口から何の前触れもなく曹操が顔を覗かせた。
「うわっ!吃驚した!!」
「と、殿!!」
「なんだ、儂には内緒の話なのか??」
「い、いや、そうじゃないが……」
そう会話している間にも、曹操は挨拶もなく中へと入り二人の間に割り込んで
座り込む。
「あ、あの、殿……?」
「うん、で?」
「で?って……」
「だから、何の話なんだ?」
「………」
聞く気満々な曹操の顔に、張遼と夏候惇は互いに顔を見合わせため息をついた。
「では、最初からお話致しましょう…」
そう断って、張遼が要点だけを纏めて流れを説明する。
腕組みをしたまま目を閉じて、曹操はただ黙ってそれを聞いていた。
夏候惇は何処か心配そうな表情をして見守っている。
また突拍子もない事を言い出すのではないかと、内心ハラハラしているのだろう。
最後まで聞き終わって、曹操は重くため息をついた。
「成程な……」
「本当はその時、夏候惇殿と蜀に偵察隊を出すかどうか審議しようと思っていたのですが、
 その矢先の事でしたので…これからどうするべきかと」
「そうか…しかし、残念だな」
「は…」
「死に目が無理なのは仕方の無い事だが、顔も見れんとはな……」
途端、張遼の顔色が変わった。
「……………あ」
胸につかえていた物が、すとんと下に落ちた気がしたのだ。
それならば、もしや。
「そうか………!!
 やはり徐晃殿は……生きているかもしれん……」
それに驚いたのは夏候惇だった。
「は?だってあの時お前……!!」
「誰があの手首が徐晃殿のものだという事を証明できる?」
「あ……?」
「そうだ。一番手っ取り早いのは、首一つ送ってよこせば良い」
にやりと笑みを浮かべて曹操が続ける。
漸く理解できたと、夏候惇は頷いた。
「そうか……首を送らないんじゃなくて、送れないんだな…?」
「その通りだ。理由は簡単、」
曹操の言葉に張遼と夏候惇は頷いて答える。

 

「徐晃がまだ生きているから、だな……」

 

それなら話が早いとばかりに張遼が立ち上がる。
「司馬懿殿に話を通そう。
 何か良い案を出してくれるかもしれん」
「そうだな。とりあえず徐晃を取り返さんとな」
そう言いながら夏候惇も立ち上がって、部屋から出ようとするのを
曹操が呼び止めた。
「儂は一番早い方法を知ってるぞ?」
夏候惇が振り返ると、曹操が目を合わせて言う。

 

「戦だ。蜀に攻め入る。
 そうすれば、何らかの形で奴等は徐晃を出してくる筈だ」

 

張遼は驚いたように目を見開き、夏候惇は呆れたようなため息をついて
空を仰ぎ見る。
やはり突拍子も無い事を言い出した曹操の顔は、悪戯を思いついた
子供の笑みそのものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

目を閉じて、考えた。
これは本当に現実のものなのかと。
いっそ、誰かが『これは夢だ』と言ってくれたのなら。
「たったこれだけで、納得なんかできませんよ……」

もっと、確たる証拠を。

ぽつりと張コウが呟く。
表情は悲しいというよりは悔しそうに歪んでいる。
その双眸から滴が落ちたが、本人は気づかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

司馬懿は来た道を引き返し、会議室の扉を乱暴に開く。
出てきた時と同じ姿で、彼は居た。
微動だにしないその後ろ姿では、どんな表情をしているのかは伺い知れないけれど。
「…馬鹿めが」
苛立ちが頂点に達し、どこかで何かが切れた気がした。
足早に近づくと自分より背の高いその男の肩を掴む。
相手が驚いて自分を振り返るよりも先に、司馬懿の拳が頬に直撃していた。
「な…なに…?」
急な衝撃に受け身も取れず、尻餅をついて張コウは司馬懿を見上げた。
「何するんですかっ?」
「煩い!」
司馬懿が、一喝した。
「いつまでそうやっているつもりだ、鬱陶しい!」
「全く…乱暴な方ですねぇ…。
 少々、考え事をしていただけですよ……」
頬を擦りながら、憮然とした表情で張コウは立ち上がった。
「簡単に言う。いいから聞け」
張コウの襟元を掴んで引き寄せると司馬懿は強い口調で告げる。
「徐晃殿は生きている可能性が高い。
 ……いや、恐らくは間違いないであろう。
 我々は、徐晃殿の奪還を遂行する」
強い意志を持った目に、それが真実であると確信して張コウは微笑を浮かべた。
「…そうですか」
「何だ、驚かんのか」
「なんとなく、そんな気がしてましたから」
「ほぅ」
「約束しましたからね。
 徐晃殿は、それを違える方ではありません」
小さく笑い声を上げて、張コウは言った。
「それで、どのような方法で?」
「その事なのだが、」
どこか気難しげに眉を顰めて司馬懿か唸る。
そこへ、張遼が戻ってきた。
「話の途中で済まないが司馬懿殿、その件について殿よりご指示がある」
「張遼殿……?」
「こちらより、蜀に仕掛けようと」
「!!…本気か…?」
驚きを隠せずに司馬懿が顔を顰めて呟く。
それを別段気にした風もなく張遼が頷くのを見て、司馬懿は思案するように
腕を組んだ。
「既に夏候惇殿は準備に入られておる。
 そこで会ったので夏候淵殿にも、同様の話は通してある。
 殿は直ぐにでも動くつもりだ」
「人を小馬鹿にしおって諸葛亮めが…。
 倍の礼をしても足りないぐらいだ。
 それについては異存はない、直ぐに策を練るとしよう。
 ………張コウ殿!!」
「何でしょう?」
「今回の戦は蜀に勝つ事ではなく、徐晃殿を取り返す事が目的だ。
 ………本気で行け」
「勿論ですよ」
にっこりと笑みを浮かべて張コウも頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「丞相」
姜維が諸葛亮の隣に立ち、眼下に広がる魏の部隊を見下ろす。
「上手くいったとお思いですか?」
「さぁて、どうでしょうねぇ…」
白扇を緩やかに扇ぎながら、彼は微笑んだ。
「直ぐにバレたんじゃないかと思いますよ?」
「それじゃ…」
「ですが、短気な軍師殿を怒らせる事ぐらいはできたんじゃないでしょうか?」
見透かした風に、諸葛亮は楽しそうに目を細めた。

 

「今頃はきっと、激怒してるんじゃないでしょうか。
 挑発に乗りやすい方ですしねぇ…」

 

 

 

 

<続>