現実は、容赦なく襲いかかってくる。
刃となって。
彼等の、心に突き刺さる。
<道程>
白い布の結び目が解かれた。
中から、桐で出来た箱が現れる。
夏候淵がそっと蓋を開くのを、司馬懿と張遼は固唾を呑んで見守った。
「…なんだこりゃ」
中から出てきたのは、一通の書簡。
その下には更に薄汚れた白い布が見えている。
書簡を司馬懿に投げ渡し、夏候淵は布切れを取出し広げた。
「これは…!」
所々に、赤い染みがある。
考えなくても、これは血液であると夏候淵にはすぐに理解できる。
しかも、その白い布にはどこか見覚えがあった。
その時。
「二人とも…見てくれ」
張遼の掠れた呟きが聞こえた。
目が離せないといった様子で、彼はまだ木箱の中を凝視している。
二人も顔を寄せるようにして覗き込んだ。
「な……っ!?」
目に入ったのは、血に塗れた人間の手首。
時間を経たせいか青黒く変色している。
暫く、言葉を発せる者はいなかった。
「まさか…」
夏候淵の絞り出すような声に、司馬懿が漸く我に返る。
手にしていた書簡を、ゆっくりと広げて目を通した。
その肩が、見る間に震え出す。
それは怒り故なのか、それとも。
次には、書簡は床に叩きつけられていた。
「馬鹿なっっ!」
これ以上ない、悲痛な叫び。
張遼が床に落ちている書簡を広げて目を通した。
「徐晃殿…」
中は短い形式的な挨拶文と、徐晃の死亡を伝える簡単なものであった。
「なんてこった…」
苦々しい表情で、夏候淵が吐き捨てるように呟く。
「諸葛亮め………!!」
荒い音を立てて、司馬懿が卓上に拳を叩きつけた。
顔は血の気が引いて真っ青になっている。
司馬懿にとって、諸葛亮という男は最大の障害だった。
いつも、何をしても、最後には必ずこの男とぶつかるのだ。
「何故!!何故いつも邪魔をするのだ!!」
唇を噛み締めて、憎々しげに目の前の木箱を睨みつける。
「徐晃よぉ……ドジ踏んじまったなぁ……」
卓の上に赤い染みのついた布を置いて、夏候淵が呟いた。
「……どうした?」
扉の開く音と同時に聞こえた声。
夏候惇の声だと認めて、張遼が顔を向けた。
「ああ、お待ちしておりましたぞ、夏候惇殿……」
「すまんな遅くなって。
…しかし、なんだってココに淵と司馬懿が居るんだ?」
驚いたような目を二人に向けて、夏候惇が苦笑する。
「しかも、今にも死にそうって面だ」
「惇兄……」
何も知らない為の飄々とした物言いに、苦笑を浮かべて夏候淵が振り返る。
その顔が瞬時に強張った。
正確には、夏候惇の後ろに立つ男に。
「と、惇兄、何で、ちょ、張コウが……?」
「ああ、そこで会ってな。連れてきたんだ。
どうせだから、俺と張遼が練っていた作戦を聞かせようと思ってな」
入るぞ、と断って夏候惇が室内に踏み込む。
次いで張コウも続こうとして。
声が飛んだ。
「入るな!!」
「…え?」
司馬懿の、切り刻まれそうな鋭い声。
それに驚いたような目で見返して、張コウは言った。
「随分冷たい事を仰るじゃありませんか?」
目を細めて室内を観察する。
元々張コウは察しの悪い男ではない。
むしろ、場の空気を感じるのは上手い方かもしれない。
室内をぐるりと見渡して、もう一度司馬懿に目を向けた。
「……私には、隠し事ですか?つれないですねぇ」
「……………」
「入りますよ」
その言葉に、司馬懿が縋るように夏候淵を見た。
『これを見せてはいけない』という声を暗に乗せて。
勿論、言葉じゃないから夏候淵に届く筈などないのだけれど。
「………悪いな」
気がつけば、張コウの前に立ちはだかっていた。
「淵将軍まで私を除け者ですか?」
にっこり笑って張コウが問う。
それに不敵な笑みを返して夏候淵が答えた。
「悪いな」
もう一度、言った。
「お前は……やめておいた方がいい」
「ふぅ…ん」
思案するように首を傾げる。
そして、司馬懿の傍の卓に目を止めた。
「……それですか」
顎で指すようにして、疑問とも確認とも取れる問いを投げる。
それにただ、夏候淵は頷く事で答えた。
「…………」
何かを考えるように、張コウはただ真っ直ぐ卓上の物を見つめる。
司馬懿に向けてもう一度言った。
「司馬懿殿、入りますから」
ぐいと夏候淵の肩を押し退けて、室内に踏み込む。
「……なんなんだよ、一体」
小声で夏候淵に耳打ちする夏候惇に、彼は曖昧な視線を張コウに
向けただけだった。
諦めたように、司馬懿がため息をつく。
「…覚悟があるならば、好きにしろ」
張遼が持っていた書簡を取り上げ、張コウに押しつける。
そのまま黙って司馬懿は足早に部屋を出た。
「あ、おい、ちょっと待てよ仲達!!」
慌ててその後ろを夏候淵が追いかける。
いたたまれなくなったからなのか。
あるいは、目にした瞬間の張コウを見たくはなかったからか。
張コウは一度二人に視線を向けたが、それを外して張遼に向けた。
「……あの、」
何かを問おうとする張コウを、張遼が手で制する。
見れば解るという事か。
それ以上は何も言おうとせず、張コウは手にした書簡を広げた。
「……夏候惇殿」
そっと、張遼が夏候惇の背中を押す。
「お、な、何だよ張遼!!」
「我々は場所を変えましょう」
「ちょっと待てって!俺はまだ何も聞いてないぞ!?」
「はいはい、貴方には私から教えて差し上げますから」
そう言い合いながら、夏候惇は張遼に押し出される形で室外に追いやられる。
出る前に張遼は振り返って張コウの背を見遣る。
微動だにしない姿に心配そうに眉を顰めたが、張遼は黙って扉を閉めた。
急に空気が静まった気がする。
実際、自分以外この場にいないのだから、当然なのかもしれない。
書簡に一通り目を通した張コウが、それを卓上に置くと傍の木箱を見た。
彼の欠片と、頭巾があった。
それを暫く眺めて、張コウはゆっくりと目を閉じる。
「徐晃、殿…………」
その口から、深く重い吐息が漏れた。
<続>