最後の書簡が司馬懿の元へと届いた。
その報告書の最後に、自分も速やかに帰国する、と簡単に書かれていて、
司馬懿は安堵のため息を漏らしていた。
それから一ヶ月。
徐晃はまだ、帰ってこない。
<道程>
夜半、職務を終えた司馬懿が自室に戻ろうと廊下を歩いていた。
ふと見上げると、綺麗に満月が浮かび上がっている。
以前から月は余り好きではなかった。
今では自室の前が一番月が良く見えるのだと言って騒いでいた二人を思い出し、
更に気が重くなってしまう。
その内の一人は姿を消した。
消息はおろか、生死さえも解らない。
そしてもう一人は。
「………またか」
手摺から階下を見下ろし、司馬懿は苦々しく呟いた。
司馬懿の居る廊下からは、中庭が一望できる。
中庭の池の辺に、一人佇む姿があった。
何をするでもなく、ただぼんやりと景色を眺めているか、夜空を眺めているか。
それも毎夜。
どれだけ仕事に追われていて戻るのが遅くなっても、必ず彼はそこにいた。
それだけなら司馬懿は別に気に止める事もないだろうが、ある時にふと
気付いてしまった事がある。
一晩中そこに居るくせに、昼間はきちんと職務をこなしているのだ。
「馬鹿めが…いつか体を壊すぞ」
そう呟いて、その日は部屋に戻った。
倒れたら良いではないか。
そうする事で、体を休める事ができるのなら。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
意外にも、そうした日々を送って先に根を上げたのは司馬懿の方だった。
口では知らぬ存ぜぬを通していても、気持ちの上で耐え得る状況ではなかったのだ。
とはいえ司馬懿は誰にでも素直に言葉を吐ける程、心根の真っ直ぐな男ではない。
屈折していると言って良い。
自分が心配しているという事実さえ、相手に伝えるのはおろか自分の中で認める事すら
そう簡単に出来る事ではなかった。
そんな男に、たった一人。
自分の気持ちを思った通りに汲み取ってくれる相手がいた。
いつもより早い目に仕事を切り上げて(それでもとうに日が暮れて数時間は経つが)、
司馬懿は自室に向かう廊下へと歩みを進める。
いつもと同じく、彼はそこに居た。
むしろ、職務に就いている時間以外はそこに居ると言っても過言ではない。
その様子だけちらと目をやると、司馬懿は踵を返して外に出た。
弦の引く音。弓の撓る音。
風を切る颯爽とした音と、的に当たった小気味良い衝突音の連打。
見事なまでにリズムの取れた仕種に、思わず拍手をしてしまう。
片手に弓を携えた男が振り返った。
「……何だ、仲達じゃねェか」
「相変わらず見事な腕だな、妙才殿」
「そうか?」
思わぬ讃辞に照れた様に笑いを浮かべながら、夏候淵は弓一式を片付ける。
「もう良いのか?」
自分のせいで修練を止めたのかと、司馬懿が怪訝そうに尋ねる。
「いや?そろそろ終わろうと思ってたんだ」
特に気にした風もなく、夏候淵が答えた。
「何故こんな夜遅くに弓の練習をする?」
「あ?あぁ……ほら、戦ってのは何も昼だけするモンじゃねェから、さ」
「成程…しかし、暗くて見通しの悪い状態でも素晴らしい狙いだ」
「いいや。まだまだだな」
首を横に振って、夏候淵は肩を竦める。
司馬懿は思わずきょとんとした目を彼に向けた。
「まだ、百発百中とまではいかんからな」
「そんな事……」
確かに100%とはいかないまでも、放った矢のほぼ9割方は、
的の中心を見事なまでに射ている。
「やっぱり夜は苦手だな。見にくくてしょうがねぇや。
ま、当然といえばそうなんだけどよ。
……それはそうと」
思い出したように、夏候淵が顔を上げる。
「何か用事あるんじゃなかったのか?」
「ああ…まぁ……」
言いにくそうに視線を泳がせて、司馬懿は口の中だけで言葉を転がした。
それに不思議そうな表情をして夏候淵が首を傾げる。
「見てもらった方が早い」
余計な説明は省こうと思ったのか、司馬懿は夏候淵の袖を引っ張ると
先に立って歩き出した。
「こっちだ」
再び自室のある廊下を渡る。
今度は夏候淵も一緒だ。
先に立って歩くと、後ろで驚いたような声が上がった。
「あれは……」
「やはり気がつくか」
「何やってんだ、アイツ……」
途中で手摺から乗り出すように、夏候淵は下を見下ろした。
「………張コウ…」
呆然と夏候淵は名を呼んだ。
勿論小さ過ぎて張コウ自身に届くはずもないが。
「もう…かれこれ2週間近くになる。
ああやって一晩中、あそこに居るのだ。
日が沈んでから、明け方まで」
「…………へ?
今日俺はアイツと練兵の当番で、朝からずっと訓練所に一緒に
居たんだが……?」
「まぁ、そうだろうな」
予定を組んだのは自分であるから、そんな事ぐらいは解っていると司馬懿は頷く。
「なに…やってんだよ、アイツ……」
「恐らく…待っているのだろう」
少し困ったように司馬懿が嘆息を漏らす。
帰るかどうかも解らない人間をずっと待ち続けているのだろう。
その気持ちが全く理解できないわけではないが、だからといってこのまま
放っておくわけにもいかない。
司馬懿は自室の扉を開けると、夏候淵を手招きした。
「ここは?」
ゆっくり辺りを見回す夏候淵に苦笑を浮かべて司馬懿が言う。
「私の部屋だが、何か?」
「いや…仲達の部屋って、初めて入ったなぁ、と……」
それは人付き合い自体が余り得意でない司馬懿にとっても同じことで。
「私も誰かを招いたのは、貴方が初めてだ」
椅子を進めて、司馬懿が笑った。
夏候淵が座ると自分は寝台に腰掛け、表情を改めて告げた。
「話、というのはだな……」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
暫くして夏候淵は一人、司馬懿の部屋を出た。
表情は憂鬱そのもといった感じで曇っている。
視線の先に張コウの姿を認めて、夏候淵は重過ぎるため息を吐いた。
「俺にどうしろってんだよ、仲達……」
諦めたように頭を振りつつ、夏候淵はゆっくりその場を歩き去った。
向かった先は自分が尤も頼りにしている人の部屋。
「……入ってもいいか?」
扉の向こうにそう声をかけると、中から返事が返ってくる。
「何だ、珍しく断りなんか入れてきて気持ち悪い。
いいから入ってこい」
その返事に夏候淵はおずおずと扉を開ける。
中では、一番安心できる顔が笑っていた。
「お前が来るなんて珍しいな、淵。
どうした?」
先刻までの重苦しい重圧がふっと軽くなった気がして、夏候淵は不覚にも
泣きそうになった。
「………惇兄…」
それに驚いて、夏候惇が椅子から立ち上がると夏候淵に歩み寄る。
「俺はもう、どうしていいか解んねぇよ……」
そう言ったきり俯いた夏候淵を見て、夏候惇は困ったように頬を掻いた。
<続>