<道程>
「では、行ってくれ」
その徐晃の言葉に、旅の商人の装束をした男が一礼をして立ち去った。
「…さて、」
徐晃が辺りに警戒をしつつ大通りに出る。
ここは自分の国ではない。
そう思うと、自然と警戒心が前に出た。
蜀に辿り着くまでは割と安易であった。
自らも商人の装束に身を包んでいたため、途中、山賊などに出くわしはしたが
徐晃の敵などではない。
だが、この蜀という国は違う。
少しでも不振な動きを見せれば、たちまち取り押さえられてしまうだろう。
ある意味、調査を無事終えられた事も奇跡といえるかもしれない。
最後の竹簡は、今しがたの男が司馬懿の元へと運んで行った。
後は気さえ抜かなければ、問題なくこの国を出る事ができるだろう。
「漸く、この格好とも別れられるな」
商人の格好は、いつも着ていた服より格段に薄く、軽かった。
軽いのは良いが、やはり着慣れない服は着心地が悪いというか、
どこか心許ない感が否めない。
国を出られたらまず着替えだろうか、などと徐晃はこっそり考えていた。
とはいえ、もう日も暮れようとしている。
恐らく先刻の男が国を出たのもギリギリだろう。
「拙者は明日だな。
なんとか、張コウ殿との約束も守れそうだ」
大通りを自分が滞在している宿へと向かう。
その途中で、突然背後から複数の悲鳴が聞こえてきて徐晃は足を止めた。
人々の悲鳴は少しずつこちらへと近づいてくる。
それと一緒に、馬の蹄の音と、男の怒鳴り声。
「どけどけぇ!!」
その馬は猛スピードで大通りを駆けていた。
驚いた人々は、慌てながら、または悲鳴を上げながら次々に道を空ける。
徐晃も端に避けようとした時、一人の幼い少女が目に入った。
走って逃げようとして、転んだのだ。
「危ねぇ!どけっ!」
馬上から男が叫ぶ。
一際高い悲鳴は、少女の母親だろうか。
それを聞いた瞬間、勝手に足は動いていた。
大通りの真ん中に飛び込んで、徐晃が手を伸ばし少女の体を掴む。
と、同時に頭に衝撃が走った。
薄れゆく意識の中で少女の泣き顔が目に写り、助けられた事の安堵感に
ため息を漏らすと、そのまま意識を手放した。
「うわっ!」
何かを蹴飛ばしてしまった事に驚いた馬が、一声嘶いて急停止した。
男が慌てて手綱を捌き、何とか馬を落ち着かせる。
馬から降りると、倒れている徐晃の元へと駆け寄った。
「おい、生きてるかっ?」
反応のない様子に内心焦って、男は徐晃の背に手を置く。
その時、不自然に体の下が動いて、そこから少女が這い出してきた。
少女は母親の姿を認めると泣き声を上げながら駆けて行く。
「ガキの方は無事か…」
ほっと息を漏らして、男が表情を緩める。
「どうした、張飛」
もう一頭、馬の気配がして張飛は後ろを振り返った。
「…関兄」
「何があったんだ?」
何と答えて良いものやらと迷っていると、関羽が徐晃に目を止めた。
「この御仁は?」
「ちょっと…馬が避けきれなくて…、撥ねちまったんだ」
すっかりしょげた風にうなだれる張飛の頭を軽く叩いて、関羽は徐晃の傍で
膝をついた。
見た感じでは、脳震盪を起こしているだけのような気がしなくもない。
徐晃の顔を覗き込んだ関羽の目が止まった。
「この御仁は…!」
「え、やっぱヤベえのか、関兄!?」
「…………。
いや…何でもない、大丈夫そうだ」
関羽は静かに首を横に振って、張飛に言った。
「益徳、ここは良いから、お前は先に報告へ行け」
「は?関兄はどうすんだ?」
「彼の人をこのままにしておくわけにもいくまい」
張飛の問いに答えながら、関羽は自分の馬に徐晃を引き上げた。
「とりあえず、私の邸へ連れて行って医師に診せよう。
いいからお前は先に行け、いいな?」
有無を云わさぬ物言いに、張飛はそれ以上は何も言わず肩を竦めただけで、
馬にまたがり城へと走り去った。
それを見送ってから、関羽は馬を私邸へと走らせる。
意識の戻らない徐晃を見下ろして、呟いた。
「何故貴方がここにいらっしゃるのだ?………徐晃殿」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ふと目を開けると、見知らぬ場所に寝かされていた。
ゆっくり体を起こすと、鈍く頭が痛んで呻きを上げる。
徐晃が起き上がろうとするのを見て、傍に控えていた侍女が慌てて
廊下へと出ていき、程なくして主がやってきた。
「徐晃殿」
聞き覚えのある声に徐晃が身を固くする。
やや間を置いてから、静かに答えた。
「………お久しぶりですな、関羽殿」
司馬懿には関羽に気をつけろとあれほど言われていたのに、と徐晃は
苦笑を滲ませる。
「体の方は如何ですかな?」
「ああ…大丈夫です。
頭が少し痛みますが」
「申し訳ない、愚弟が失礼をした」
「あの幼子は……?」
「無事、親の元へと」
「よかった…」
ほっと胸を撫で下ろして、徐晃は今度は微笑みを浮かべた。
自分だから助かったのだ。
跳ねられたのがあの幼子であったならば、恐らく死んでいただろう。
だから、今のこの状況を後悔はしていなかった。
きっと訳を話せば、張コウは『貴方らしいですね』と言って、笑って許すだろう。
司馬懿は肩を竦めて嘆息はするだろうが、何も言わないに違いない。
だから。
「さて、何故徐晃殿が此処にいらっしゃるのか……お聞かせ願えますかな?」
「………残念ですが、お話しするわけには参りませぬ」
例えばこの言葉の先には、死しか待っていなかったとしても。
<続>