<道程>
「なんと…それは真でござるか」
「ああ、徐晃殿には危険な任に就いてもらう事となるが……」
「拙者の事を気になさることはない。
そういう事であれば、行動は早い方が良いですな」
城の一室で、司馬懿と徐晃は向かい合って話し込んでいた。
曹操から投げられた指示とは、とどのつまり劉備率いる蜀の国を
偵察して来いという事である。
司馬懿自身も蜀の軍師である諸葛亮の手の内を知っておきたいという
気持ちは多分にあったのだが、それを行うには余りにも危険が大きい。
劉備の配下には、関羽・張飛・趙雲を始め、腕利きの武将が
揃っている。
当然ながら、捕まれば無事では済まないだろう。
「色々考えたのだが、やはり頼めるのは貴殿しか居らんのだ。
徐晃殿…宜しく頼む」
珍しく頭を下げてくる司馬懿に、徐晃は慌てて手を振った。
「そんな、どうか頭を上げて下され。
大事なく任をこなして参りましょうぞ」
「しかし……徐晃殿」
顔を上げて、司馬懿は眉を顰める。
「あの国には、関羽がいる」
その言葉に、徐晃は僅かに身を強張らせた。
関羽とは劉備の義兄弟で、一時はこの国に居たこともあり、
その頃に徐晃ともそれなりの交流があった。
国境を越え敵味方に分かれても義に厚い2人の関係は、恐らく
変わってはいない。
「関羽は貴殿の顔を良く知っておるだろう。
奴にだけは、決して悟られぬように……」
「はい、解っております」
一時的に親交のあった者でも、今は敵同士。
相手もそれを承知の上で戻って行ったのであるから、自分の胸の内での
整理はできている。
複雑な心境であるのは否めないが、それはそれ、これはこれだ。
「それでは、二、三の策を授けて頂きたいのですが…」
徐晃はそう言うと、周りに聞こえないように声を顰めた。
暫くそうした話が続き、大体の話が纏まった所で徐晃は部屋を出た。
じきに手はずは全て整うだろう。
それまで自分は機が訪れるのを待つのみだ。
「やれやれ…忙しくなりそうだな」
「……そうなのですか?」
背後から突然声をかけられ、徐晃は驚いて振り向いた。
「張コウ殿…!?」
「司馬懿殿とのお話は終わりましたか?」
「ああ。貴殿は今日は、練兵の当番でしたな」
「そうです。こっちも先刻終わった所なんですよ」
張コウは徐晃の隣について共に歩きながら、にこやかに答えた。
「どうだろうか、我が軍の力は……」
「随分と兵士同士の纏まりは出てきたようですよ。
ただ…1人1人の実力となると……」
「まぁ、どの兵も農民の出ですからな」
仕方ないか、と徐晃は苦笑を浮かべる。
「張コウ殿に…ひとつ、頼みがあるのですが」
「何でしょう?」
「拙者の軍の中から何人か、素質のありそうな者を見繕って、
腕を磨いてやって頂きたい」
「え?」
突然の申し出に目を丸くして、張コウは言った。
「どうしてまた、急にそのような事を仰るのですか?」
「それは……」
答えようとして、ハッとしたように徐晃は辺りを見回す。
「徐晃殿?」
「あ、いや……今、ここではちょっと…。
近い内に、必ずお話します」
「そうですか……解りました」
敢えてそれ以上追求しようとせず、張コウは微笑んだ。
「引き受けましょう」
「張コウ殿……。
無理を言って申し訳ありませぬ」
「何を仰るんですか」
ぐっと拳を作って、張コウは意気込んで答える。
「我が軍に劣らない美しさを!!
しっかりと身につけさせてみせましょう!!」
「…………。」
少し不安な目で見上げる徐晃に、張コウは片目を瞑ってみせた。
「大丈夫ですよ、私の美しさと力を信用して下さい」
それに苦笑を浮かべて、徐晃は言う。
「ああ、拙者はいつも貴殿を信用しておりますぞ」
「嬉しい事仰って下さって、ありがとうございます。
ああ……そうだ」
歩みを止めた張コウに、徐晃も合わせて立ち止まる。
「徐晃殿、明後日はお時間ありますか?」
「明後日……?」
確か、例の件での出発はまだ先であった筈。
それなら大丈夫だと徐晃が答えると、嬉しそうに張コウは笑った。
「ああ良かった。
では明後日、一緒に遠乗りへ行きませんか?
素敵な場所を知っているのですよ」
「それは是非、拙者も参りましょう」
穏やかに笑い徐晃もそう答えた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「これはまた……絶景ですな……」
約束の日の夕暮れ、徐晃と張コウは2人、馬を駆けさせていた。
城から少し離れた所に、小高い丘がある。
場所自体は知っていたが、徐晃自身が訪れたのはこれが初めてだった。
「美しいでしょう?」
丘を昇りきった2人は手綱を引いて馬を止め、後ろを振り返った。
そこからは、城下全体が一望できる。
夕暮れの橙に染まりゆく街並みが、そこには広がっていた。
「この場所は、私のお気に入りなのですよ」
自慢気に張コウが言う。
それに頷いて徐晃は笑った。
「素晴らしいですな…。
このような場所だったとは……」
「徐晃殿には、是非見て頂きたかったのです」
馬を休ませ、2人は暫くそこで景色を眺めていた。
だが夕陽が沈むのは早く、あっという間に景色は闇に沈んでいく。
その頃になって漸く、徐晃は閉ざしていた口を開いた。
「………張コウ殿」
「何ですか?」
「拙者、蜀へと参る事になりました」
「………はい?」
言われた事の意味が即座に汲み取れずに、張コウは問い返した。
「蜀…ですか?」
「ええ、偵察の任に就く事となりました」
穏かな笑みを絶やさぬまま、徐晃は淡々と告げる。
「危険な任ですね…」
「…正直、生きて帰れるかどうかも解りませぬ」
「そうですか…それで……」
そこで漸く、あの時徐晃が自分に部下を託した理由が解った気がした。
帰ってこれないかもしれないと、そう言うのだ。
「徐晃殿」
張コウは真っ直ぐ徐晃の顔を見つめて言った。
「必ず戻って下さいね。待っていますから」
丘の上を風が走り、さわさわと草が鳴った。
「……張コウ殿ならそう言って下さると思っていました」
真っ直ぐ見つめ返して、徐晃が答える。
「できれば大事無く任を済ませたいのは山々なのですが、
少々、自信がなかったもので……。
しかし今、何だか励まされた気になりました」
そう言って、徐晃は照れくさそうに笑った。
ゆっくり草を食んでいた馬が、一声嘶く。
馬の方に向かうと、徐晃は手綱を掴んだ。
「さあ、張コウ殿。
そろそろ戻りましょう」
「……そうですね」
2人はひらりと馬に跨ると、行きとは逆に徐晃が先に立って馬を走らせる。
だから、張コウが少し寂しげに笑みを零した事も、彼は気付かなかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
夜明け前、徐晃は一人馬を駆った。
もちろん行動は極秘である。
城門を守っている門番も、今日は交代の時間を僅かにずらして、
わざと空白の時間を作られていた。
これが司馬懿の整えた手筈。
その誰もいない隙間を縫って、徐晃は城門を潜り抜ける。
よって、徐晃が城から消えた事を現段階で知る者は誰一人としていない。
その筈であった。
「徐晃殿」
門を僅かに開けて抜け出そうとした徐晃は、背後からの突然の声に
思わず身を竦ませていた。
「な…っ、ちょ、張コウ殿!?」
「しっ!静かにしないと気付かれますよ?
…秘密なんでしょう?」
張コウは唇に指を当ててキョロキョロと辺りを見回す。
それに慌てて声のトーンを落として、徐晃は尋ねた。
「……どうして、張コウ殿が?」
「たった一人の出発も寂しいじゃありませんか。
ですから、お見送りに」
「…よく解りましたな」
「まぁ、司馬懿殿の考える事ですから」
どこか言葉に含みを持たせて、張コウは笑った。
「徐晃殿が門を出たら、私が閉めて錠も下ろしておきますよ。
でないと、外側からでは鍵はできないでしょう?」
「あ…それは、かたじけない」
苦笑して徐晃が頭を掻いた。
実のところ、そこを考えていなかったわけではないが、門の外側に出てしまう
自分にはどうしようもなく、しかし後で門番が鍵の開いている事に気付いたと
しても、自分はその時には遠くを馬で駆けている筈なので、敢えて放置する
ことにしていたのだ。
後になって発覚しても恐らく大した問題にはなるまいと。
バレれば番の担当の者がこっぴどく叱られるかもしれないが、司馬懿がきっと
上手くとりなしてくれるだろう。
だが確かに錠を下ろす人間が居てくれれば、極秘の任務がより確固たるものに
なる事には変わりない。
一度、司馬懿に錠をしてくれないかと徐晃は進言したのだが、「そんな時間に
この私が起きていられると思っているのか、馬鹿めが」と一蹴された。
静かに馬の手綱を引っ張り、そっと門の外へと出す。
そうして徐晃は張コウへと振り向いて、ぺこりと頭を下げた。
「それでは、行って参ります」
「………徐晃殿」
呼ばれて顔を上げたその時には、張コウにきつく抱き締められていた。
驚きで言葉の出てこない徐晃に温かい声が降ってくる。
「必ず、帰ってきて下さい」
「……解った、約束致そう」
あやすように張コウの背中を叩いて、徐晃が答える。
「帰って来たら、また私と遠駆けに出て下さいますか?」
「それも、約束ですな」
優しく答えると、張コウは顔を上げた。
徐晃の肩を押して、門の外へと送り出す。
「…お気をつけて」
「後の事は頼みましたぞ、張コウ殿」
「任せて下さい」
小さく笑みを零して、張コウはひらひらと手を振る。
待たせていた馬に跨り、徐晃は一度だけ振り返って頷くと、
鞭を入れて馬を駆けさせる。
その姿が遠く見えなくなるまで、張コウは城門の前に佇んでいた。
<続>