<道程>

 

 

 

 

張コウもすっかり曹操治めるこの国に慣れてきたようであった。
自然体の彼は今までよりもずっとよく笑う人で、司馬懿が軍師として
敏腕を奮うようになった頃、張コウは面白いオモチャを手に入れたと
また笑っていた。
「司馬懿殿は、からかうととても面白いんですよ。
 いつか血管切りそうで恐いんですけどねぇ」
「…とはいえ、その原因はいつも貴殿ではないのか?」
「うふふ、そこを突かれると返す言葉もありませんよ」
今宵は月も綺麗に見えていて、張コウは月見酒はどうかと徐晃を誘った。
その誘いに快く乗って、今こうして一緒に居るわけなのだが。
「しかし、すっかり馴染まれたようですな」
「そりゃあ……もう、ここに来て随分経ちましたからね…」
杯の中の酒に目を落とし、張コウは小さく微笑んだ。
「色々ありましたけど…今は、ここに来て良かったと思っていますよ」
「それは良かった」
酒を一気に飲み干して、徐晃も笑う。
少し特殊な美的感覚を持っているが、それ以外は普通の男だ。
いや、会って共に過ごして、武勇だけでなく頭も切れる者だと知った。
文武両道。
自分の求める在るべき姿なのかもしれない、と思う。
「戦も一段落したようですし、暫くのんびりできるでしょう。
 今度、一緒に遠乗りへ出かけませんか?」
「それも…いいですな」
月を眺めながら楽しそうに言う張コウに、徐晃は頷きながら答えた。
同じように月を見上げ、いい夜だと素直に感じる。

 

「貴様等……私の部屋の前で何をしている………」

 

背後で突然バタンと扉が開かれ、聞こえてきたのは明らかに怒気の含まれた声。
だが張コウは全く気にした様子も無く、上機嫌に答えた。
「おや、司馬懿殿。月見酒ですよ。
 ご一緒に如何です?」
「結構だ!!」
司馬懿が撥ねつけるように答える。
そして徐晃に向き直った。
「…で、私の部屋の前でわざわざ酒盛りですか?徐晃殿」
「いやぁ……この場所が一番良く月が見えるのです。
 それで、つい…」
「イヤですねぇ…そんな細かい事でグチグチ言うなんて。
 ああ、美しくない」
「張コウ殿!!」
横から口を挟むと、司馬懿が怒鳴り返す。
肩を竦めて張コウは黙った。
「ま、まぁ、司馬懿殿。
 そんなにいきり立たずに…」
「私はまだ仕事が山積みなのだ!!
 それなのにそんな戸口で和やかにやられれば、怒りも沸くというものだ!」
「そうでござったか……それは、失礼した」
徐晃が素直に頭を下げると、司馬懿も少し機嫌を直したようで
廊下に出ると手摺に肘をかけ夜空を見上げる。
「満月……か」
「お嫌いですか?」
そっと、張コウが訊ねる。
司馬懿はちらとそっちに目をやり、また月に戻した。
「嫌いではない。
 だが……恐いな」
「恐い、ですか」
「ああ。
 いつも…満月は私を不安にさせる」
「詩人ですねぇ」
「からかっているのか?」
「いいえ」
笑って張コウは首を横に振った。
からかうつもりは微塵もないが、あの司馬懿の口から恐いという言葉が
聞けるとは思わなくて、少し不思議な気分になる。

「何をしているんだ?お前達」

急に横から声をかけられて、司馬懿と張コウが振り向く。
「と……殿!!」
驚いて司馬懿が声を上げた。
廊下の向こうから歩いてきたのは曹操と、その後ろに夏侯惇。
「こんな所で3人固まって。
 何かあるのか?」
「いえ、ただ月を愛でながら酒を呑んでいただけですよ。
 一緒に如何ですか?」
「月見酒か、悪くない」
「…おい孟徳!お前さっきまで散々呑んでただろうが!」
にんまりと笑う曹操に、驚いて夏侯惇が嗜める。
「司馬懿殿も、少し一服なさいませんか?
 お酒がお嫌であれば、お茶もありますので」
努めて優しく張コウが言う。
それに眉を顰めて司馬懿が答えた。
「茶ならば宜しいが……どうしたのだ張コウ殿、酒に頭でもやられたか?」
「おおいやだ。
 ちょっと親切にしたらすぐコレですから」
いつもの調子で切り返すと、司馬懿がニヤリと笑った。
「貴様が俺に親切など、何か裏があるとしか思えんからな」
「嫌ですね、ひねくれ者はコレだから」
「……何だと?」
まさに一触即発のそれを止めたのは、夏侯惇の一言。
「どうでもいいから、さっさと孟徳の相手をしてやれ。
 さっきから徐晃が絡まれてるぞ?」

「「………えっ?」」

驚いて2人が顔を向けると、無理矢理隣に侍らされて曹操に酌をしている徐晃の姿。
「…殿、そんなに急に煽られては、お体に障りますぞ?」
「いいのだ、あそこの2人は儂など眼中にないらしいからなっ」
曹操の声音には、少しイジケた響きがある。
張コウと司馬懿と夏侯惇は互いに顔を見合わせ、大きくため息をついた。

 

それから、数日。

 

 

 

 

 

 

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 

 

 

 

極秘で司馬懿は曹操に呼ばれ、彼の私室に赴いた。
そこで聞かされた言葉は、司馬懿の予想の範疇を明らかに超えていて。
「な、なんと……本気でございますか?」
「ああ。我等はあまりにも、その内部を知らなさすぎるからな」
「し、しかし……」
「出来んと?」
「いいえ、そんな事はございません。
 ですが……適した人材が居れば、の話です」
「人選はお前に任せる」
「な…っ」
言葉をなくして、司馬懿は目の前の男を凝視した。
まだ、自分は彼を甘く見ていたのだろうか。
眉を顰めて主君を見遣れば、まるで難問でも出題したかのような表情。
「………解りました」
司馬懿の口元から零れたのは、諦めたような嘆息だった。
「その策、受けましょう」
「良く言った」
ニッと人好きのする笑みを見せて、曹操は満足げに言う。
「成果を期待しておるぞ」
「は…」
一礼して、司馬懿は曹操の部屋を出た。
廊下を3歩進んで、ピタリと足を止める。
再び重い重い、ため息。
「適した人材など……奴しか居らんではないか……」
しかし、これを頼めばいつも傍にいる片割れが何と言うことか。
「……ちっ」
それでも、やらなければならないのだろう。
小さく舌打ちをすると、司馬懿はその場を去って行った。

 

 

 

 

曹操の椅子の背に凭れかかる様に床に腰を下ろしていた夏侯惇が、
口を開いた。
「おい孟徳。
 あんな事言って、俺に回されたらどうするんだ?」
「できないと言うのか?お前は」
「いや、そういう訳じゃないが……」
「心配するな」
曹操は椅子に腰掛けたまま、夏侯惇の頭を軽く叩いた。
「お前にはならんよ」
「そうか?」
「この策を遂行するには、お前は不向きだ」
「……どういうイミだ」
つっけんどんに言い返す夏侯惇に、曹操が笑い声を上げる。

 

「目立つ者と血の気が多い者に務まるものではないからな。
 ………偵察、というものはな………」

 

 

 

 

 

 

<続>