生きて。
どうか生き延びて。

 

それだけを、願って。

 

 

 

 

<道程>

 

 

 

 

 

 

官渡の地で、袁紹と決着をつける。
曹操の号令の下、皆奮い立った。
兵糧庫に火が放たれたのと同時に、総攻撃の令が下る。
徐晃は先陣を切って、袁紹軍へと立ち向かっていた。

 

 

 

 

蝶を見た気がした。
華麗に舞う、蝶を。
敵味方入り乱れる戦場で、そこだけが異色に思えた。
鋭利な鉄の爪で、軽やかに殺していく。
余りの鮮やかさに圧倒されるように、徐晃はその光景をただ見つめていた。
見惚れていた、のかもしれない。
「危ない!!」
突如、横から声がして、横に引っ張られるような重力を感じる。
その右頬を、爪が掠めた。
「大丈夫ですか!?」
自分を援護していた護衛兵に助けられたのだと少ししてから漸く気付き、
すまん、と一言礼を言い、徐晃は斧を握り直してゆっくりと立ち上がった。
「余所見をしていてはいけませんよ?」
目の前に立つ男が、微笑みながら言った。
それを正面から見据えて、徐晃は答える。
「次はこうはいかん。正々堂々と参られよ!」
「………上等です」
ふっと、艶やかな笑みを浮かべると男は一気に間合いを詰めてきた。
斧を下から振り上げるように薙ぐと、男は跳ぶ。
「な…っ」
頭を飛び越え背後を取られる。
驚いた徐晃が振り返る余裕すらなく、声が聞こえた。
「遅いですよ?」
目前に爪が迫る。
しかし、聞こえたのは肉が裂ける音ではなく、固い金属音だった。
「……なるほど」
振り返る事なく、徐晃は爪の降ってくる軌道を読んで斧の柄を振り上げていた。
男が危険を察知して間合いを取った直後に、斧の切っ先が通り過ぎていく。

 

強い。

 

間合いを取った状態で、二人はただ対峙する。
「……名を、教えては頂けませんか?」
「拙者、徐公明と申す」
「私は張儁艾と申します。
 随分……お強いのですね」
「貴殿こそ」
同時に踏み込み打ち合う事3度。
次に放った一撃は同時で、鍔迫り合いとなった。
「貴殿こそ……とても、強い」
一歩も譲らず競合ったまま、徐晃は呟く。
楽しいと、純粋にそう思う。
強い者と戦う時に感じる高揚感が、徐晃に笑みを浮かべさせた。
「……笑ってらっしゃいますね」
「そうかもしれぬ。
 貴殿と戦う事が、楽しくて仕方ないですからな…」
「ええ、私も楽しませて貰っていますよ?
 全く隙の見えない貴方の……綻びを探すことを」
張コウの足払いが入り、ぐらりと徐晃の体が揺れた。
「どうもこちらの軍が押されているようです。
 これで終わりにしましょうか」
「……させるかっ!」
爪が届く寸前、徐晃は倒れ込みながらも器用に斧を逆手に持ち替える。
柄で、思いきり張コウの足首を薙いだ。
「つ……」
よろめいた張コウを足元から救うように、もう一度。
「あ…っ!」
バランスをなくした張コウが、尻持ちをつくように倒れる。
その隙を逃す事無く即座に立ち上がって、徐晃は刃先を相手の首に突きつける。
首元の刃先を視線だけで見遣り、張コウは苦笑を覗かせた。
こうなってしまっては自分にもはや為す術は無い、完敗だ。
「……参りました、徐晃殿」
両手を上げて、張コウは微笑んだ。
「どうぞ、この首をお持ち下さい」
「………必要ない」
そう答えた徐晃を不思議そうに見上げると、斧を引いた徐晃はその手を取って
張コウを立ち上がらせた。
「拙者が狙っているのは、袁紹の首ひとつだ」

 

 

 

 

喧騒の中、馬の蹄が聞こえてくる。
そして自分達の方へと近付いてくるそれに、張コウは目を丸くして叫んだ。
「高覧!!」
「張コウ、ここにいたのか!!」
馬に跨った男は、2人のすぐ傍で止まった。
「どうしたのです?」
「やられたぜ、曹操軍に敗戦した俺らはお払い箱だってよ。
 どうやら俺達は袁紹に見限られたらしい。
 いや……ハメられたに近いか」
「……なんですって?」
「曹操に寝返る為の謀反を企んでたなんて濡れ衣着せられて、
 俺達はすっかり反逆者扱いだ。
 今戻ったら確実に殺されるぜ?」
「そんな……馬鹿な事が……」
信じられないという風に首を振る張コウを見て、高覧は肩を竦めた。
「ちなみにさっき、『本陣へ帰還せよ』っていう伝令が来たモンだから、
 思わず斬っちまった」
「馬鹿な!!それでは本当に反逆者じゃないですか!!」
「ああそうさ。俺はこれから曹操軍へ降る。
 これ以上袁紹には付き合ってられねぇよ。
 お前も死にたくなかったら、さっさと投降する事だな。
 一応、忠告だけはしといたぜ。じゃあな!!」
そう捲し立てると、高覧は馬に鞭を当て走り去った。
「用無し、なんですか。我々は……」
遠くなっていく高覧を乗せた馬を見つめながら、張コウはぽつりと呟く。
それには何も答えることは無く、引いた斧を大地に突き立てて置くと、
徐晃は張コウの傍で膝をついた。
「どうされる?
 大人しく投降されるのであれば、曹操殿ならきっと受け入れられよう。
 そういう事情であるならば、拙者も先程の方のように投降されることを
 貴殿に薦めますぞ」
「…………まさか」
苦笑して、張コウは首を横に降った。
徐晃の方へ視線を向けて、微笑う。
「戻ります、城に」
「殺されると判っているのに、か?」
「ええ。これでも私は、袁紹殿に一軍を任された武将のはしくれですから。
 罰せられると言うのであれば、素直に受けます」
そう言って張コウは徐晃に一礼すると、踵を返して毅然と歩き出した。
後姿を見送りながら、徐晃は嘆息を漏らす。
なんと真っ直ぐな人なのだろうか。
武人であるならば、ここはきっと引き止めるべきではないのだろう。
しかし、徐晃の胸の内では葛藤があった。
このままみすみす死なせてしまうには、余りにも惜しい存在。
「張コウ殿!!」
つい口を突いて、声が出た。
張コウは歩みを止めるが、振り返らない。

 

「張コウ殿、貴殿は生きられよ!!」

 

彼の肩が、僅かに動いた。
「生き延びて、拙者とまた手合わせ願いたい」
少し俯くように、彼の首が傾いた。
「ですが……」
「武に生きる一人の人間として、拙者が貴殿を引き止めるのは
 きっと間違っているのだと思う」
「………………」
「しかし、拙者は貴殿に生きて欲しいのだ。
 こんな所で散るべき命ではござらん!!」

 

 

一時の、沈黙。

 

 

「……嫌ですねぇ……」
暫くしてから、そう呟くと張コウはゆっくりと振り向く。
その顔には微笑みが浮かんでいた。
「それじゃ、逃げろと言っているようなものじゃありませんか」
「……そう言っているのです、拙者は」
つられて徐晃も笑みを浮かべた。
「貴殿は、死なせるには非常に惜しい」
「買い被り過ぎですよ」
「そんな事はござらん。
 少なくとも、拙者にとっては」
ふふ、と声を上げて笑うと、張コウは徐晃の方へ向かって歩き出した。
「わかりましたよ。
 では、私は今からあちらへ向かう事にします」
徐晃の傍で足を止めると、そう告げて張コウは曹操軍の本陣がある方向を指した。
「……馬を」
そこまではかなりの距離がある。
徐晃は自分の乗ってきた馬を渡そうとしたが、張コウはやんわりと断った。
「歩いて行きたいのです。
 自分の、足で」
「そうか」
敢えてそれ以上、徐晃は言わなかった。
「……拙者はこれより、袁紹の討伐に向かう」
「ええ、どうぞご随意に」
想像していたよりもずっと穏やかな声音で、張コウは答えた。
「あの方が倒れるのなら…それも自然の流れなのでしょう」
「では、道中お気を付けて参られよ」
「……徐晃殿も。
 もう1度生きてお会いしたいですから」
そう言うと張コウはポンと軽く徐晃の肩を叩き、そのまま振り向く事無く曹操軍の
本陣へと向かって歩き出した。
その姿を少しだけ見送ってから、徐晃は馬に跨る。
「………さっさと終わらせるか」
そう呟くと、馬に鞭を入れて袁紹軍の本陣へと向かった。

 

 

 

 

橋を越えると、辺りは急に静まったかのように静寂が訪れた。
曹操軍の者は皆、袁紹を討とうと本陣へ向かっている。
風に乗って、時折剣戟の打ち合う音が聞こえるのみ。
「袁紹殿……」
あれでも、ずっと仕えてきた主君だった。
こんな形で裏切られても、ここで最期を遂げられても、信頼してずっと従ってきた
主君だった。
ゆっくりと振り返ると、本陣が遥か遠くに望める。
もう、戻る事は2度とないだろう。
例え袁紹に逃げ延びる事が出来たとしても。

 

「………………さようなら、袁紹殿」

 

小さく、決して相手には届かないであろう言葉。
張コウの瞳から一粒、涙が零れた。

 

 

 

 

 

 

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 

 

 

 

魏軍に降った張コウを、曹操は厚くもてなした。
袁紹軍の武将として名を馳せてきた自分なのだから、如何なる処遇にも
耐えようとは思っていたのだが、どうやらそれは杞憂であったらしい。
しかし、城内に居ても町を歩いても、徐晃に会うことは出来なかった。
「………今はどちらにいらっしゃるんでしょうね、あの方は…」
あの戦いの後、凱旋してきた者の中に徐晃の姿はなかった。
もしかして戦いの最中に命を落としてしまったのだろうかと心配もしたが、
そういう訳ではなさそうだ。
曹操も時折「徐晃はまだ帰らんのか?」と漏らしている。

 

 

 

 

今日も兵の鍛錬を終え、張コウは宛がわれている屋敷に戻ろうと
夏侯惇と共に廊下を歩いていた。
「ここはもう慣れたか?」
「ええ、とても良い所です。
 規律もしっかりなされているし」
「そうか」
誉められたのを自分の事の様に喜んで、夏侯惇は笑った。
「夏侯惇殿。ひとつ、お尋ねしたい事があるのですが」
「おう、何だ?何でも聞いてみろ」
「徐晃殿は、どちらへ?」
「……あ?」
一瞬きょとんとした目を向けて、夏侯惇が言った。
「徐晃と知り合いか?」
「いえ…知り合いというわけではないのですが…。
 まだ、ちゃんと挨拶ができておりませんので」
「ああ、そういやそうだったな」
軽く頬を掻いて、夏侯惇は笑った。
「徐晃は今、郭嘉に頼まれて官渡の周りを偵察して回っている。
 袁紹は討てたが、逃げられた武将が山の中に潜んでいるらしくてな。
 殲滅とまではいかんが……。
 でもまぁ、もうボチボチ戻って来るだろう」
「そうですか」
後ろを歩く張コウにそう教えながら、夏侯惇は廊下の角を曲がった。
途端、何かにぶつかって彼は尻持ちをつく。
慌てて張コウは走り寄った。
「大丈夫ですか!?
 ああもう、余所見しているから……」
そう言いながら相手を見た張コウが軽く目を見開いた。
「いてて……お、徐晃じゃないか!」
ぶつかった相手は、奇しくも噂の張本人である。
徐晃も尻持ちをついたらしく、腰を擦りながら呻いている。
「夏侯惇殿、ちゃんと前を向いて歩いて下され……」
「何言ってやがる、お互い様だ」
その物言いに苦笑しながら、徐晃は夏侯惇の傍に立つ者を見上げる。
見覚えのあるその姿に、徐晃は驚いたように目を瞠った。

 

「「あ……!!」」

 

同時にお互いを指差す。
「そうか……無事でござったか、何よりだ」
安堵したような、ため息と言葉。
張コウはそれにただ黙って、頭を下げる。
そんな二人を座り込んだまま交互に見比べていた夏侯惇が、軽く肩を竦めた。

 

「なんだ、やっぱり知り合いか」

 

 

 

 

 

 

<続>

 

 

 

 

 

 

どうしようかずっと悩み続けた末の、道程の復活です。
まさかこんな日が来るとは思いませんでした。(自分が言ってどうする)

せめて、今の自分が直視できるような文章に訂正してやろうと
今ちょっと色々校正をしております。
この物語を愛してくれた皆さんに、もう一度お届けできる事を
心より嬉しく感じつつ、エンドマークまで頑張っていこうと思います。

 

2007年4月 佐伯みのる